第九八番 東向山田福寺(時宗) 子安地蔵尊

三島市谷田一六六五−一

<移転した田福寺>

 東向山天徳院田福寺は、箱根旧街道(国道一号線三谷バイパス)の入り口から東へ約五百メートル、川原ケ谷の信号を右に曲がり、創価学会三島平和会館の横道を進むと、突き当たりの左側にある。
 同寺は応長元年(一三一一)、遊行二祖陀阿真教上人の弟子、覚阿栄証によって開創された。往時は三島大社から南へ約三百メートル、下田街道に面して東向きに建っていたため、「東向山」という山号がつけられたという。
 安政の大地震(一八五四)で火災に遭い、古記録等の多くを失ったため、それ以前の歴史は定かでない。明治三六年、同寺の南側に道路が開かれた際に、寺院を南向きに改めた。さらに、昭和五九年、同寺の西側を通る県道二一号線の拡張に伴い、墓地の大半が道路用地と重なったため、全山を現在地に移転した。
 本尊は阿弥陀如来の坐像。行基作と伝えられてきたが、胎内に墨書があり、底部に「一六世其阿」との記載のあることから、室町時代の作と推測されている。また、本堂内には室町時代に作られた遊行二祖陀阿上人の立像も祀られている。

<不動尊と地蔵尊>

 田福寺を訪れると、山門の外側左脇に、明治二年に遊行五八世〇〇上人が揮毫した「南無阿弥陀仏」の名号碑が立っている。また、山門をくぐると正面に本堂、向かって左側に庫裡、右側には山門側から順に、鎮守の稲荷社、不動堂改築紀念碑、棟続きの不動堂と地蔵堂、やけどよけ地蔵が並んでいる。
 稲荷社は文政七年(一八二四)に京都の伏見稲荷大社から勧請されたもの。毎年、節分後の午の日に大祭を行っている。
 やけどよけ地蔵は、やけどのため、昭和七年に亡くなった五歳の男の子の菩提を弔うために、翌八年九月に建立された。高さ六〇センチ、合掌姿の石像で、台座部分に「火もとしのぢぞうぼさつのごりやくで やけどの痛み止りなるらん」と刻まれている。
 不動堂内の不動尊には、次のような由緒が伝えられている。いつの頃か、江戸へ向かう旅人が三島で病気になり、お金が尽きてしまった。困った旅人は、背負っていた不動尊を五円で質に入れることにした。その後、病が癒えた旅人は三島を去り、不動尊はそのままになった。やがて時が経ち、久保町にあるその質屋で原因不明の病人が出た。修験者に見てもらうと、土蔵に放置されている仏様の祟りだという。そこで、驚いた質屋は大正元年四月に、米一升を添えて不動尊を田福寺に奉納した。さらに、しばらく後に、この不動尊が成田山の上人の夢枕に立ったということで、成田山から数名の僧侶が田福寺を訪れた。そうしたいきさつのために、この不動尊の噂は三島一帯に広まり、不動講が組織された。縁日は五月二八日。ただし、同寺ではこの不動尊を六〇年に一度開帳の秘仏としており、前回の開帳は同寺の移転時に行われた。
 子安地蔵尊は地蔵堂に祀られている。高さ一一五センチ。木製の立像で、左手に子供を抱き、右手に錫杖をもつ。この尊像は、昭和七年、百地蔵の制定を期に当時の住職が購入したもので、江戸時代中期の作とみなされている。八月二四日が縁日である。

   ご詠歌 願うれば子もやすやすと育ちゆく 地蔵菩薩の誓い頼めよ