第八一番 吸江山法雲寺(臨済宗妙心寺派) 延命地蔵尊   

静岡市清水区江尻町八―七

<江尻城と法雲寺>

 吸江山法雲寺は、巴川にかかる稚児橋の北東、約二〇〇メートルのところにある。この稚児橋は、徳川家康が東海道を整備するため、慶長一二年(一六〇七)にかけさせたのが始まりである。渡り初めは、選ばれた老夫婦が行うことになっていたが、一人の童子が橋を渡って駿府の方へ消え去ったことから、「稚児橋」と呼ばれるようになった。この童子は巴川の河童だったと伝えられている。

また、法雲寺の西、約二五〇メートルにある江尻小学校は、江尻城の本丸の跡地である。江尻城は、駿河国に侵攻した武田信玄が永禄一二年(一五六九)に築き、穴山梅雪が改修したが、慶長六年(一六〇一)に廃城になった。法雲寺のあたりは、当時、入江を望む高台で、武田氏の家臣の館があったと言われている。

 法雲寺の開山は鎌倉建長寺の僧、岐雲和尚(一六二九没)。寺伝によれば、天正年間(一五七三―一五九二)に辻の松原(現在の清水区辻)に創建されたというが、寛永年間(一六二四―一六四四)に現在地に移転した。安政大地震(一八五四)で全山を焼失し、古記録を失ったため詳細はわからない。明治時代には法雲寺に江尻町役場などが置かれたが、当時の堂宇も戦災で焼失した。

法雲寺の墓地には、清水次郎長が慕っていた和田島の太左衛門の墓がある。また、同寺の裏では、清水次郎長が江戸大相撲の富士嶋親方の一行を招き、相撲興業を行ったこともあるという。

<法雲寺の仏たち>

 法雲寺の本尊は聖観音菩薩。運慶の作と伝えられているが、明治初年の廃仏毀釈から昭和一三年まで、物置の地中に隠されていたため、尊像の全体が黒ずんでいる。

須弥壇の本尊の両脇には、如意輪観音と薬師如来が安置されている。如意輪観音は鉄舟寺(久能寺)から遷されたもので、聖観音像が不在の間、本尊の代わりとして祀られていた。一方、薬師如来は一〇世圓室義謙和尚(一八八八没)が檀信徒ともに遠州油山寺から勧請したもの。以前は毎月八日が縁日だったという。

さらに、須弥壇の左側にも数体の仏たちが祀られている。高さ一二〇センチ程の毘沙門天像も鉄舟寺から遷されたもので、胎内の銘文から、運慶の孫の康円(一三世紀)の作であることが知られる。また、厨子に納められた聖徳太子像は、大正一二年に江尻町の鳶、大工、左官などの職人が奈良の法隆寺から勧請したもの。同じく、厨子の中の半僧坊大権現は、八世任梁禅材和尚(一八三八没)が遠州奥山方広寺から勧請したもので、かつては毎月一七日が縁日とされていた。その他、弘法大師像も祀られている。

延命地蔵尊は山門を入った左側に安置されている。「三界萬霊」と刻まれた石塔の上に鎮座する石造の坐像で、総高一四五センチ。両手を胸の前で重ねた形をしている。由来などは不明だが、この尊像は幾つかに割れた跡があり、頭部も崩れていて表情はわからない。また、この地蔵尊の周りには、高さ六八センチ前後の四体の地蔵尊が安置されている。この四体の背面には、それぞれ「法性」「陀羅尼」「宝印」「地持」と刻まれており、それらがもとは、六地蔵尊の中の四体であったことがうかがわれる。

ご詠歌  法(のり)の道説いて雲間の地蔵尊  願いをかけよ末の世までも