第五番 御霊山高林寺(臨済宗妙心寺派) 子育地蔵尊

静岡市手越三三〇番地

<御霊大明神と高林寺>

 御霊山高林寺は、安倍川橋から西へ三百メートル、県道二〇八号の南側に面し、地元では「ごりょうさん」と呼ばれている。
 手越の地は、鎌倉時代まで街道の宿駅としてにぎわいを見せていた。しかし、室町時代以降には人家もまばらになってしまった。その頃、この地に数本の松の木が生えており、人々はそこを高林と呼ぶようになった。この場所に建てられたのが高林寺である。
 寺伝によれば、駿府町奉行の配下に、武田信玄の父、信虎から数えて四代目の孫にあたる松井惣左衛門正近という者がいた。この正近の長男八十郎は生来優れた性格で、しばしば奇瑞を示したという。けれども、八十郎は汚れることや地面に足をつけることを嫌がった。そして、一三歳の時、落馬して土に触れたことから体調を崩し、慶安四年(一六五一)九月一八日に亡くなった。戒名は高林院清岩宗心童子。遺体は伝馬町の宝泰寺に葬られた。
 この八十郎は亡くなる少し前に、白衣を着て白馬に乗った姿で父正近の夢枕に立ち、自分は間もなく死ぬが、仏式の葬儀を行わないでほしいと告げたという。また、死後にも正近の夢枕に現れるとともに、時の天皇の夢にも現れ、手越村の守護神になると語ったという。そこで、朝廷は承応二年(一六五三)に八十郎に二位御霊大明神の神号を授け、高林の地を社地として与えた。
 同年、松井正近は妻とともに髪を剃ってこの地に住み、別当として御霊大明神をお守りした。これが御霊山高林寺の始まりであり、正近夫妻が同寺の開基である。その後、大渕元丈和尚がこの寺の住職になると、同和尚の四代前の師である勅諡播揚大教禅師物外紹播和尚を名目上の開山(勧請開山)に仰ぎ、宝永六年(一七〇九)に妙心寺の直末寺院となった。本尊は釈迦如来である。

 けれども、同寺が神仏混淆の場であり、神社としての性格を強くもっていたことは確かである。境内には木馬堂があり、安永二年(一七七三)の駿府大火の際に、浅間神社から逃げ出したといわれる白馬の塑像が祀られている。また、江戸時代には、同寺が駿府御城代や町奉行所の武運長久の祈願所とされていた。

<明治以後の高林寺> 

 明治時代にはいると、同寺では御霊大明神を御霊尊と改めた。また、山門の正面に祀られていた御霊社を寺の鎮守として脇に移し、境内の鳥居を取り除くことで、寺院の性格をはっきりさせた。
 墓地の一角に、無縁法界供養塔と刻まれた石碑がある。これは、東海道本線の大崩トンネルの工事中に殉職した一二名の菩提を弔うために、明治二一年七月一五日に立てられたものである。
 子育地蔵は、正しくは「松根子育地蔵」といい、境内の真ん中で大きく枝を広げた樹齢二百年の松の根元の祠に祀られている。記録によれば、この地蔵は、西国三十三カ所の第一番札所である紀伊国(和歌山県)那智山青岸渡寺の地蔵の写しとして、大正六年九月一七日に当寺に安置された。約一メートルの石柱に乗った三〇センチ程の石の坐像で、赤ちゃんを抱き、ほほ笑みを浮かべている。地蔵盆は七月二四日。かつてはにぎやかなお祭りであったが、今は住職が読経するだけの静かなものになっている。

  ご詠歌  善し悪しをもらさで救ふ願なれば 仏に頼む身こそ安けれ



       
         高林寺本堂と地蔵堂                 子育地蔵尊