第五七番 井宮山松樹院(浄土宗) 地蔵尊   

静岡市葵区井宮町二四八

<松樹院と浄功院>

井宮山松樹院智全寺は、浅間神社の赤鳥居から北へ約六〇〇メートル、賤機山の西側の麓に位置している。

寺伝によれば、同寺は永久三年(一一一五)、井宮神社の別当寺院として創建された。当時は真言宗だったが、次第に衰退したという。その後、永禄三年(一五六〇)、小田原城主北条氏綱の三男であった善蓮社大誉光公上人が同寺を浄土宗に改宗して再興した。

同寺の北側の山麓には、駿府加番と駿府城代を歴任した信濃国〇〇藩主、松平忠明(一八〇五没)の墓がある。忠明は近藤重蔵や間宮林蔵を連れて蝦夷地を探検したことで知られる。また、城代在任中には安倍川の治水や浅間神社の再建に尽力した。遺言により、浅間神社造営の木遣り音頭が聞こえるこの地に葬られたという。忠明の墓の近くには、その死後、松樹院の境内に庵を結び、三年間墓守りをした家来の広瀬更山の墓がある。

ところで、かつては同寺の南隣りに、籠鼻山浄功院という浄土宗寺院があった。この地は、徳川家康の長女、市姫が七歳で亡くなった後、乳母が庵を結んだ場所である。慶長一六年(一六一一)、市姫の一周忌の際に、家康が乳母の願いにより、現在の駿河区平沢にあった浄功院をこの地に移し、源蓮社空誉蓮随上人を招いて千日念仏を行った。堂内には市姫と乳母をはじめ、家康にゆかりの九名の女性の位牌が祀られていたという。だが、浄功院は明治時代に無住となり、後に松樹院と合併した。松樹院の寺号も以前は「西照寺」だったが、現在は「智全寺」に変わっている。これは、合併した浄功院の寺号を残したものかもしれない。

<三体の阿弥陀如来と地蔵尊>

 浄功院の跡地に広がる墓地の入り口に、高さ約一五〇センチの石仏が祀られている。由緒書によれば、これは永隆元年(六八〇)に、中国の善導大師がタイに赴き、そこで刻んだ阿弥陀如来像だという。寛永三年(一六二六)、タイで活躍していた山田長政が浅間神社に軍船図絵馬を奉納した際に、あわせてこの阿弥陀像を浄功院に奉納した。かつては眼病の治癒に利益があるとして、多くの人々が参詣したという。また、当時は浄功院の本堂の厨子内に安置されていたが、現在では戦災のために破損が激しい。

 松樹院の本尊は阿弥陀如来。現在の本尊仏は、もとは伊勢神宮外宮の神宮寺の本尊だったものだという。それが明治初年の廃仏毀釈で三重県鳥羽の最勝寺に遷されたが、さらに昭和二四年に松樹院に遷座された。一方、戦前の本尊仏は、今日、位牌堂に安置されている。空襲の中を救い出されたものだが、光背と台座は戦後に補修された。また、戦後の一時期、この尊像は自然木の台座に祀られていたため、修復の際にも蓮台を設けず、この自然木をそのまま生かした独特の台座の上に安置されている。

 百地蔵の第五七番地蔵尊は、本堂内の左側に、観音菩薩と薬師如来ともに安置されている。いずれも戦前から同寺に祀られていた仏たちだが、尊像は戦災で焼失したため、近年新たに復興された。地蔵尊の由来はわからない。高さ約四五センチ。厨子に納められており、左手に宝珠、右手に錫杖をもつ木製の立像である。

ご詠歌  ふだん咲く桜をここに井宮の  人の心の花や開けん