第五三番 瑞泉山松源寺(臨済宗妙心寺派) 子安地蔵尊   

静岡市葵区大岩本町二六−一

<「青林寺」から「松源寺」へ>

瑞泉山松源寺は、賤機山の東側の麓に位置し、第五二番富春院から〇〇メートル程南下した所にある。

 同寺はもと青林寺といい、現在の駿河区大和田にあったという。天文七年(一五三八)に、今川義元が青林寺あての文書を発布しているため、同寺の創建はそれ以前だったことが窺われる。また、天文年間の臨済寺末寺帳には「栖(青)林寺」の名前が記されており、当時、この寺が臨済寺の末寺だったことも明らかである。

しかし、永禄六年(一五六三)、青林寺は今川義元の菩提寺として新たに建立された天澤寺の塔頭寺院となり、現在地に移転した。その際に、大和田の土地等は小坂の安養寺に譲渡された。これは、今川氏真が天澤寺の創建の際に行った、臨済宗寺院の再編成の一環だと思われる。だが、寺号の変更がいつなされたのかは定かでない。『駿河志料』の推測にもとづけば、元和年間(一六一五―一六二三)の前後だと思われる。寺号の由来もわからないが、「瑞泉山」の山号は、寺の裏山から水が涌いていたことによるのだろう。

松源寺の開山は、〇〇の〇〇寺の開山でもある勅諡普済英宗禅師月航玄津和尚。けれども、普済禅師は名目上の開山(勧請開山)で、実際には弟子の一宗猷和尚が松源寺を開いたと考えられている。ただ、普済禅師は天正一四年(一五八六)に亡くなっているため、同禅師や一宗和尚が青林寺の草創時の開山とは思えない。同寺が現在地に移転した時の開山とみなすのが妥当だろう。

一七世紀の前半に、松源寺は普済禅師の弟子の系統が途絶えて一時衰退したが、臨済寺にゆかりの実山茂和尚が住職になって再興した。この時、松源寺は再び臨済寺の末寺に戻ったと思われる。

<松源寺の仏たちと古い墓塔>

松源寺の本尊は十一面観音菩薩。同寺は明治六年に火災で全焼したが、本尊は罹災を免れたため、江戸時代以前の作と思われる。

 一方、子安地蔵は庫裏の裏側、墓地の入り口の地蔵堂に祀られている。左手に宝珠をもち、右手に錫杖をもつ石造りの立像で、高さ一一〇センチ。由緒などは不明である。文化二年(一八〇五)刊行の『駿河記』には地蔵堂の存在が記されているが、当時の地蔵堂は火災で焼失したため、現在の尊像はその後のものだろう。地蔵堂には他にも千手観音と聖観音、弘法大師、「大岩不動尊」が安置されており、それぞれに提灯や御詠歌の額が奉納されている。

ところで、賤機山の山麓に広がる墓地の一番高い所に、二基の古い墓石が立っている。いずれも文字の判読は難しいが、向かって右側の高さ一七七センチのものは小野朝右衛門尉高寛(一六七一没)の墓、左側の一四五センチのものはその母(一六二六没)の墓である。墓碑銘によれば、小野高寛は徳川家康と秀忠に仕えた旗本で、法名は秀山玄哲大居士。一方、母の法名は知雲宗才大姉。『駿河志料』等はこの女性を小野於通と推測している。

ただし、小野於通の実像は定かでない。豊臣家に仕えた後、家康に召されて姫君の師となり、大奥でも高い信任を得たという。また、源義経と浄瑠璃姫の悲恋を描く「浄瑠璃十二段草紙」の作者と言われており、博学多彩で書画に通じた伝説的な才女である。

ご詠歌  後の世もいとやすらげくこの世にも  たから授くる願ひとぞ聞く