第四番 瑞岩山心光院(臨済宗妙心寺派) 盗難除地蔵

静岡市手越二七六番地一

<心光院と地蔵尊>

瑞岩山心光院は、本通から安倍川橋をわたり、百メートル程西進したところを右折した奥に、通称桜山を背にたっている。
 延宝七年(一六七九)の夏、山城国淀の養源寺第二世大龍恵入和尚が同寺を隠退してこの地を訪れた。その際に、駿府の豪商深江屋森又兵衛が同和尚に帰依して寺院を建立した。これが心光院の創建であり、当初は瑞岩庵と呼ばれていた可能性がある。開山は大龍和尚、開基は森又兵衛、本尊は釈迦如来である。
 宝永元年(一七〇四)、二世盤泉和尚がこのことを京都の妙心寺に通達し、それによって同寺は妙心寺の直末寺院となった。その後、同寺の住職は養源寺を隠退した僧侶が八代にわたって勤めたが、養源寺は明治時代に廃寺となった。そのため、大龍和尚の師であり、養源寺の開山であった勅諡廣大覚満雲谷宗岫禅師の等身大の座像が、養源寺から心光院にうつされて現在に至っている。
 同寺の山門の手前左側には六地蔵が祀られており、その後ろに、自然岩の台座を含めて高さ五メートル程の石造りの地蔵が立っている。これは通称「日の丸地蔵」と呼ばれており、昭和一二年に戦死者を弔うために発願されたものである。
 盗難除地蔵は、本堂の須弥壇上の厨子に納められている。彩色が施された木製坐像で、台座を含めて高さ約五〇センチ。左手に宝珠、右手に錫杖をもつ。しかし、この地蔵の由来は不明である。

<千手と少将>
 心光院前の一帯は、かつて御所、あるいは長者屋敷と呼ばれていた。御所というのは、源頼朝が鎌倉と京都の往復の際に、当地で宿泊したことによると言われている。また、長者屋敷とは、当時の手越駅の長、もしくは遊女の元締めの屋敷があったことによると考えられている。この手越長者の娘と言われる千手と少将、あるいは平家討伐に活躍した武田信義の母など、歴史に名を残す遊女たちがこの地の出身であった。
 この中の千手は、源頼朝の寵愛を受けたが、一の谷の合戦で捕われた平重衡を慰める役を命じられ、やがて重衡と相思相愛の仲になる。しかし、重衡が京都に護送される途中で殺害されると、千手は出家し、間もなく亡くなった。千手の悲恋は『平家物語』や『吾妻鑑』に伝えられ、後に謡曲「千手」として語り継がれた。
 一方、少将は千手の妹とも言われ、海道一の遊君と呼ばれていた。彼女は、『曽我物語』で知られる曽我兄弟の仇討ちの際に、討たれた工藤祐経の宴席に同席していたことが『吾妻鑑』に記録されている。また、少将は曽我兄弟の弟時到を慕っており、時到が処刑された後に出家して、その菩提を弔ったとも言われている。
 心光院の西隣りに鎮座する少将井神社は、当地の産土神を祀るとも、この少将の霊を祀るとも伝えられている。また、同神社の境内には、白拍子姿で舞う千手の像が立てられている。こうした遊女たちは和歌や技芸に優れた当代一流の文化人であり、かつての手越は駿府をしのぐ文化の中心であったことをうかがわせる。現在、心光院では本堂を利用したコンサートや落語の会などを催しており、手越地区に新たな文化を生み出す試みを続けている。

ご詠歌 雨風をいとわずすすむ信仰は やがて花咲く浄土なるらん


       
         心光院山門                      盗難除地蔵尊