第三八番 天叟山元長寺(曹洞宗) 子育延命地蔵尊

静岡市瓦場町一五一

<元長寺と朝比奈氏>

 天叟山元長寺は、清水山公園の北東約二〇〇メートル、清水山の北側山麓に位置する。
 同寺は今川家の重臣で、今川義元の娘婿でもあった朝比奈元長が開基となり、その屋敷内に創建された。永禄二年(一五五九)二月一五日に地取りを行い、同年四月八日に上棟式、八月一八日に完工し、同月二八日に落慶したと伝えられている。開山は元長の伯父で、現在の焼津市坂本にある林叟院六世、勅諡天竜円鑑禅師哉翁宗咄和尚。山号は天竜禅師の「天」と林叟院の「叟」を組み合わせ、寺号は元長自身の名前からとられている。
 永禄三年(一五六〇)、桶狭間の合戦で今川義元が討死した時、従軍していた元長は、川辺の柳に隠れて難を逃れたという。後にその柳の木で楊柳観音像を刻ませ、朝比奈家の守り本尊としたというが、その行方はわからない。元長は永禄九年八月二二日に亡くなり、元長寺に葬られた。本堂裏側の墓地には、高さ九〇センチ程の自然石の墓塔が現存する。法名は月光院殿天叟元長大居士。
 一方、元長の子の信置と孫の信良は今川家滅亡後、武田家に仕えたが、天正一〇年(一五八二)、武田家の滅亡の後に自刃した。しかし、信良の二人の子供と信良の弟の宗利は、後に徳川家康によって旗本に取り立てられた。貞享元年(一六八四)、信良のひ孫の跡部良賢が元長、信置、信良の位牌を元長寺に奉納し、正徳四年(一七一四)には、当時駿府町奉行の職にあった元長五代の孫の深津正国が、元長の墓前に石灯籠一基を奉献している。
 嘉永七年(一八五四)、府中江川町の大火の飛び火で、元長寺は現存する山門を残して全山を焼失した。そこで、元長から数えて九代目、元長寺の中興開基とされている朝比奈元敏が直ちに復興に着手した。だが、翌年には竣工目前の建物を再び火災で失い、元敏も死去。同寺に本堂が再建されたのは明治時代のことである。

<元長寺の仏たち>

 元長寺の本尊は聖観音菩薩。伝承によれば、この仏像は大同元年(八〇六)の開眼。藤原鎌足から七代目、朝比奈家の祖とされる堤中納言藤原兼輔以来、同家の守り本尊とされていたものであり、元長寺の開創の際に本尊として安置されたという。火災の時にもいち早く運び出されて無事であった。
 子育延命地蔵は、山門前に広がる駐車場の入り口脇のお堂の中に、観音像と並んで祀られている。向かって左側の観音像は高さ八七センチ。明和八年(一七七一)に、横田町の市右衛門と院内町の喜兵衛が願主となり、瓦場、上横田町、院内町の人々によって安置されたことが、光背の記録から窺われる。一方、地蔵尊は蓮台を含めて高さ八八センチ。左手に宝珠をもち、右手に錫杖をもつ石造りの立像である。尊像の背中には「延命地蔵菩薩」の文字と、安永九年(一七八〇)九月に瓦場の人々が願主となってこの像を再興したことが記されている。地蔵の由来などは伝わっていないが、もとは江戸時代の初め頃、建造中の駿府城の瓦を製造するために、三河国渥美郡から呼び集められてこの地で暮らしていた職人たちが、村の鎮守として祀ったものではないだろうか。

  ご詠歌 春日なる町のお寺の地蔵尊 行来の人を助けたまわん