第三二番 徳雲山崇福寺(臨済宗妙心寺派)地蔵尊(不座)

静岡市稲川一丁目三番地一七

<稲川氏と山梨稲川>

 徳雲山崇福寺は、県道三五四号(南幹線)と石田街道の交わる稲川の交差点から、西に五〇メートルのところにある。
 同寺の草創は弘治二年(一五五六)と伝えられており、開基は稲川村に一八〇石を領有していた稲川氏と考えられている。伝承によれば、崇福寺のある場所は、もともと稲川氏の別宅や墓地があった所だという。江戸時代の中頃に天外祖然和尚(一七三五没)が寺院を開いたが、その後は無住状態が続いたらしい。寛政二年(一七九〇)に伝馬町の宝泰寺一三世桂山和尚の弟子、末宗宜末和尚によって中興された。本尊は聖観音菩薩である。
 稲川氏の先祖は長池殿という京都の公家である。文和年間(一三五二−一三五六)に奉幣使として浅間神社に遣わされ、そのまま駿河国に住み着いたとも、戦国時代(一五−一六世紀)に戦乱の京都から今川氏をたよってのがれて来たとも言われている。その後、同氏は代々浅間神社の奉幣役をつとめた。
 また、稲川氏一一代清臣は養子で、その実父は漢学者の山梨稲川である。山梨稲川は漢詩人としても著名であり、後にその漢詩集『稲川詩草』を見た中国の愈曲園は、稲川を日本随一の漢詩人と称賛している。稲川は文政九年(一八二六)に五六歳で亡くなった。彼の墓は現在も崇福寺に稲川氏歴代の墓とともに残っており、伝馬町の宝泰寺には稲川を称える碑が立てられている。

<鯖大師の霊場>

 崇福寺は、一般に「鯖大師」の寺として知られている。鯖大師とは、弘法大師が四国を巡錫している時に、阿波国(徳島県)海部郡で馬の背中に塩鯖を積んだ馬子に出会った。大師が鯖を一つ譲ってくれるように頼むと、馬子は大師をののしって断ってしまった。すると、間もなく馬が腹痛を起こしたので、馬子は大師に謝って、鯖を一つ差し上げた。途端に馬の腹痛は直り、大師が鯖を海に投げ込むと、鯖は生き返って泳ぎ出した。そこで、この馬子はその地に鯖を手にした弘法大師の像を祀ったという。それが後に鯖大師本坊八坂寺となり、鯖を三年間食べずに願い事をすれば、病気がなおり、願いがかなうと伝えられるようになった。
 崇福寺の鯖大師は、同寺六世住職の伊藤善法師が、大正年間に八坂寺からその分身を勧請したものである。縁日は九月一三日。もとは病気回復の祈願所であったが、現在は大漁祈願の霊場として、漁師たちの信仰を集めている。山門を入って右側の大師堂には、進水式を迎えた漁船の写真や絵馬が所狭しと飾られている。また、山門の左側には、相良町の篤心者が寄贈したもう一体の鯖大師像と、十二支の守り本尊の石像、百度石なども祀られている。
 ところで、戦前には本堂の前に地蔵堂があり、その中に百地蔵の第三二番地蔵尊が祀られていたという。この地蔵の由来は伝わっていない。ただ、明治時代の財産目録には地蔵と地蔵堂のことが記されていないため、この地蔵は大正時代の前後に安置されたと思われる。地蔵と地蔵堂は昭和二〇年の戦災で焼失し、同寺では地蔵尊の不在が長く続いていた。目下、崇福寺では新しい尊像を祀る準備を進めている。

  ご詠歌  末の世の種を供えて稲川の 実りて後の世こそたのもし