第二九番 宝城山海蔵寺(時宗) 延命地蔵尊

焼津市小川一三七五番地

<海から出現した地蔵>

 宝城山金玉院海蔵寺は、焼津駅から南へ約二、二キロ。小川中学校の西裏側に位置し、境内には小川幼稚園がある。
 同寺の草創は定かでない。古くは「安養寺」という天台宗の寺で、平安時代末期には後白河上皇の祈願所だった。嘉元三年(一三〇五)、一遍の弟子の遊行二祖陀阿真教上人が同寺を訪れた時、住職の勧海律師が同上人に帰依して、寺を時宗に改めたという。
 明応七年(一四九八)、この地方を大津波が襲った。その二年後の明応九年の春、焼津城の腰村の沖合が輝き、等身大の地蔵が海中から引き上げられた。その地蔵が漁師たちの夢枕に立ち、自分は安養寺にゆかりがあるので、安養寺に運んでほしいと告げた。そこで同年六月、この地蔵は安養寺に移されて、同寺の本尊とされた。これが「小川の地蔵」と呼ばれる海蔵寺の延命地蔵であり、同寺の寺号も「海から現れた地蔵」にちなんで「海蔵寺」と改められた。この地蔵は、遊行三二世普光上人(一六二六没)が見た夢のお告げにしたがって、毘首羯摩天の作と伝えられている。

<紀伊徳川家と小川の地蔵>

 伝承によれば、由井正雪の乱(一六五一)への関与を疑われた紀州徳川家の初代頼宣が、申し開きのために江戸へ向かう途中、大井川の増水で足止めされてしまった。そこで、先を急ぐ頼宣は神仏に祈願した。すると、一人の大法師が現われて水をせき止め、川を渡れるようにしてくれた。一年後、頼宣が村人から教えられた海蔵寺に立ち寄って、「川をせき止めてくれたのはあなたですか」と地蔵に尋ねると、地蔵は身をゆすってそれに答えたという。
 しかし、実際には徳川家康もこの地蔵を信仰しており、幼年時を駿府で家康と過ごした頼宣は、早くから海蔵寺を武運長久の祈願所にしていたという。元和五年(一六一九)、頼宣が紀伊国(和歌山県)の藩主になった時には、この地蔵を紀伊国へ運ぼうとした。けれども、住職がそれを断ったため、頼宣は自らの守本尊である五センチ程の銅製兜地蔵とその厨子を海蔵寺へ寄進した。
 その後、紀州徳川家では代々小川の地蔵を尊崇し、安永九年(一七八〇)に延命地蔵の厨子を、万延元年(一八六〇)には現在の本堂を寄進した。この他にも、同地蔵を尊崇した大名は数多い。
 また、安政六年(一八五九)、焼津の漁師天野甚助が伊勢沖で遭難した。彼は一枚の船板につかまって小川の地蔵を念じ続け、三日後に助けられたという。後日、「甚助の船板」は海蔵寺に奉納され、小泉八雲はこの話を題材にして小説「漂流」を著した。
 尊像は等身大の木造。平成九年に解体修理が施されたため、肌の白色と袈裟の彩色が鮮やかである。岩上に半跏で坐り、左手に宝珠、右手に錫杖をもつ。また、左右には脇侍の掌善童子と掌悪童子が仕えている。しかし、この地蔵は通常は秘仏とされており、毎年縁日の七月二三日と二四日にだけ開帳される。縁日には境内に屋台が並ぶほか、本堂の天井に故人の着物が吊るされて、その冥福が祈られる。また、海蔵寺の地蔵は海上安全、豊漁祈願を祈願する漁師の信仰が厚いほか、川除けや水除けにも霊験あらたかだと言われ、分身が安倍川や大井川の流域に多数祀られている。

 ご詠歌 たぐいなや荒磯波によるよると 光をさして浮かぶ菩薩は



       
           海蔵寺本堂                         本尊・延命地蔵尊の厨子