第二六番 鏡池堂 六地蔵尊(延命地蔵尊)

藤枝市瀬戸新屋四番地

 <鏡ケ池と悪竜退治>

 鏡池堂は、藤枝駅から西へ約一キロ、松並木が残る旧東海道と県道二二二号線が交差する地点の東側に建っている。
 この鏡池堂の北側に、平安時代までは直径二二〇メートル程の鏡ケ池があった。伝説によれば、ある時、旅の鏡研ぎ師が一人暮らしの老婆の家に宿を借りた。その夜、老婆が留守の間に、家の奥から「婆ーバー来ーサイヨー」という声がした。鏡研ぎ師が声のした部屋をのぞき込むと、棺桶から死人が抜け出している。鏡研ぎ師はあわてて逃げ出したが、その時に、大切にしていた鏡を落としてしまった。その鏡の落ちたところが池になったという。
 また別の伝承によれば、平安時代末期の長寛年間(一一六三−一一六五)、この池に悪龍が住み着き、時折女装しては村人や旅人に危害を加えたという。そこで、藤枝宿の鬼岩寺二世静照上人が、池の周囲の丘に七カ所の護摩壇を設けて不動明王を祀り、一七日間の祈祷を行った。その結果、悪龍は退散し、鏡ケ池も干上がって農地になった。現在では小さな沼が残るだけである。ちなみに、この時の不動明王は智証大師円珍の作と言われており、後に鬼岩寺に祀られて「池旱不動」と呼ばれた。(祈祷を行ったのは宇陀上人、不動明王は水上村万福寺の本尊という説もある。)
 一方、村人は悪竜の供養のため、承安元年(一一七一)に玄昌行者を招いて池のほとりに庵を建て、鏡ケ池から出現したという六地蔵を安置した。この庵は玄昌庵と呼ばれ、ながく近在の人々の尊崇を集めることになる。
 さらに正徳三年(一七一三)、この地を治めていた大草太郎左衛門が、この六地蔵に祈願して世継ぎを得た。そこで、手代の向坂仁右衛門を普請役として鏡池堂を新たに建立し、玄昌庵の六地蔵をうつして本尊とした。その時、仁右衛門も自ら六地蔵の厨子を寄進した。鏡池堂には、今も仁右衛門の位牌が祀られている。

<秘仏とされた六地蔵>

鏡池堂の六地蔵は、三〇センチ程の木板に六体の地蔵が刻まれたもので、金箔が押されているという。この地蔵も智証大師円珍の作とも伝えられている。ただし、鏡池堂にうつされて以来、六地蔵は三三年毎に開帳される秘仏とされた。だが、最近では昭和三三年のご開帳以来、厨子の扉は閉じられたままである。
 現在のお堂は、昭和三三年に昔のお堂に似せて再建されたもの。屋根には「鏡」の文字を刻んだ軒瓦を掲げ、左右にはそれぞれ亀に乗って笙を吹く仙人と、鯉の上で巻物を手にした仙人の像が置かれている。正面の額は天保一一年(一八四〇)に渡辺崋山が揮毫したものとも、坂本龍馬の書とも言われている。一方、堂内には六地蔵の厨子を中心に、向かって右側に四本の位牌、左側に高さ五〇センチ程の石地蔵が祀られ、釣るし雛が飾られている。
 現在、鏡池堂は瀬戸新屋の町内会と南駿河台の富洞院で管理しており、災難消除、延命長寿、家内安全、交通安全などに霊験あらたかと言われている。縁日は八月二三日と二四日。昼には念仏会と施食会、夜には出店も出て盆踊りが行われる。以前は二五日にカボチャのお粥が振る舞われたが、今では廃止されている。

  ご詠歌 悪業の影うつりなば浄玻璃の 鏡が池の曇るとや見ん




   鏡池堂内部(中央が六地蔵尊の厨子)