第一七番 瑠璃山光泰寺(曹洞宗)

岡部町内谷四二四番地

<修験の寺から曹洞宗へ>

 瑠璃山光泰寺は、岡部町役場を背に東へ百メートル程進んだところを左折し、さらに二百メートル先の岡部聖母幼稚園の角を右折して、四百メートル程進んだところにある。
 同寺の前身は十楽院という真言宗の寺である。草創の時期や開基はわからない。現在の寺域の背後にある高草山の上にあったと言われており、修験者の道場だったとも考えられる。しかし、十楽院は数百年を経て天正年間(一五七三−一五九二)に荒廃した。
 その後、文禄年間(一五九二−一五九六)に、岡部町桂島の梅林院八世を退いた圓州舜光和尚が十楽院の復興に取り組んだ。圓州和尚は、寺を高草山の尾根の東側に位置する内谷本郷、現在国道一号線のバイパスが通っている辺りに移し、宗旨を曹洞宗、寺名を光泰寺と改めることにした。しかし、同和尚は復興の実現を待たず、慶長三年(一五九八)に亡くなった。
 圓州和尚の遺志を継いだのが、梅林院九世の大翁恵最和尚である。慶長一二年(一六〇七)に諸堂が完成すると、大翁和尚は師の圓州和尚を開山に仰いで光泰寺を開創した。
 やがて、江戸幕府のもとで世の中が落ち着くと、東海道を往来する人々も増え、岡部宿もにぎやかになった。そこで寛文年間(一六六一−一六七三)に、光泰寺五世峯寿是雄和尚は寺の発展のため、同寺を宿場に近い現在地の内谷新地に移した。さらに、貞享四年(一六八七)から五年をかけて諸堂を再建し、現在に至る同寺の基盤を確立した。

<祀られている様々な仏たち>

 百地蔵の第一七番地蔵尊は、光泰寺の本尊である。同寺が開創された時に、村人の願いによって地蔵が本尊に選ばれたという。江戸時代初期の作で、高さは約一六〇センチ。木造の座像で、左手に宝珠、右手に錫杖をもっている。台座や光背の彫刻も細かく、優美な尊像だが、ふだんは幔幕の後ろに隠れている。
 また、須弥壇上には弘法大師の作とされる阿弥陀如来も祀られている。この仏像は、かつての十楽院の本尊と伝えられている。
 さらに、本堂の西の間には、木喰五行上人が寛政一二年(一八〇〇)六月二八日に製作した高さ二一六センチの准胝観音像と、同年七月五日に彫り上げた高さ一一三センチの聖徳太子像が安置されている。(木喰上人については、第七番泉秀寺を参照。)
 一方、本堂の西側には観音堂と薬師堂が建っている。観音堂には石造りの三十三観音が祀られており、これは寛政一一年(一七九七)に同寺〇〇世〇〇〇〇和尚が諸国巡拝の記念に安置したもの。薬師堂は文化七年(一八一〇)の再建で、中には薬師如来と日光菩薩、月光菩薩、十二神将が祀られている。薬師如来は瑠璃光如来とも言われ、同寺の山号はそれにちなんでいる。そのため、薬師堂の仏たちは、光泰寺の前身の十楽院にゆかりのものだと考えられる。薬師堂の天井画は狩野休圓と為仙の作品である。
 さらに、薬師堂の背後の山肌には小さな洞窟があり、その中に釈迦如来と通称「穴地蔵」、それに修験道の開祖とされる役行者が祀られている。これも、十楽院の時代のものであろう。

  ご詠歌 山高く昇る朝日の内谷を 照らしてやすき寺ののどけさ


       
           光泰寺全景                       本尊・地蔵尊