第一四番 大鑪山誓願寺(臨済宗妙心寺派)延命地蔵尊

静岡市丸子五六六五

<片桐且元の菩提所>

 大鑪山誓願寺は、国道一号の二軒屋交差点を北に曲がって約五百メートル、大鑪の不動尊へ向かう途中にある。
 同寺の創建は建久三年(一一九二)。源頼朝が両親の追善菩提のために建立したと伝えられており、祖師堂には「武皇嘯源大禅定門」と記された頼朝の位牌が祀られている。当初は浄土宗の寺だったといい、本尊は今も阿弥陀如来である。ちなみに、現在の本尊仏は元和九年(一六二三)に寄進されたものだと思われる。
 天文二三年(一五五四)、今川家と武田家による丸子城の争奪戦の飛び火で誓願寺は全焼した。しかし、丸子城を押さえた武田信玄が、甲斐国(山梨県)恵林寺の快川紹喜和尚の進言によって同寺を再興し、宗旨を臨済宗に改めた。中興開山は文益瑞奎和尚。
 慶長一九年(一六一四)、京都方広寺の梵鐘の銘文をめぐって、豊臣家と徳川家康との間に不和が生じた。この時、申し開きのために駿府を訪れたのが、豊臣家の重臣片桐且元である。だが、家康は且元がすぐに駿府にはいることを許さなかったため、且元はしばらく同寺に滞在したという。結局、豊臣家は且元の努力もむなしく、慶長二〇年(一六一五)五月八日に大阪夏の陣で滅亡した。その二〇日後、且元も自害し、誓願寺に葬られた。
 現在も誓願寺に残る片桐且元夫妻の墓は、且元の甥の片桐貞昌(石州)によって立てられた。貞昌は四代将軍徳川家綱の茶華道の指南役をつとめた人物で、石州流茶華道の流祖。誓願寺の本堂裏にある回遊式庭園の作者でもある。同寺は、武田家関連の古文書や片桐且元の遺品、石州流の茶華道具などを所蔵しているほか、天然記念物のモリアオガエルの生息地としても知られている。

<不動尊と地蔵尊>

 誓願寺から北へ約一キロ進むと、同寺が管理している滝不動尊、通称「大鑪のお不動さん」がある。不動堂は木々が生い茂る中で、滝に面して建てられており、そのまわりには太郎坊大権現と次郎坊大権現、丸子城における武田信玄の守り本尊であった愛宕大権現、それに大小様々な地蔵なども祀られている。毎月二八日の不動尊の縁日には、大勢の参拝者でにぎわっている。
 一方、誓願寺の山門から百メートル程南には、平成一三年に新築された地蔵堂があり、村の鎮守の地蔵尊が安置されている。
 また、山門前には太鼓坊地蔵と、百地蔵の第一四番延命地蔵が祀られている。小さな祠の中の太鼓坊地蔵は、高さ約七五センチ。天明八年(一七八八)の建立である。当時、誓願寺に太鼓を叩くのが得意な禅粛という修行僧がいた。だが、病弱で若くして亡くなったため、不憫に思った師匠の同寺一三世達源和尚が、世の人々の無病息災と長寿を願って祀ったのがこの地蔵である。以前は村の入り口の丘の上に、この僧の故郷である尾張国(愛知県)の方向を向けて置かれていたという。
 これに対して、延命地蔵の由来は定かでない。台座を含めて二四〇センチ程の石造りの立像である。いつ頃作られたのかもわからないが、二、三〇〇年はたっていると思われる。左手に宝珠をもつが、右手の錫杖は失われた。素朴な印象の石仏である。

  ご詠歌  はかりなき慈悲の実りやことぶきの 誓いを願う心なりけり


       
            誓願寺山門             延命地蔵尊(右端)と太鼓坊地蔵堂(左端)