世間に生きる私たち

(月刊『在家仏教』2008年9月号)

ここ数年、「いのちの尊厳」とは何かということを考えている。この言葉は、近年さまざまな場面で用いられているけれど、その意味は必ずしもはっきりとわからない。『広辞苑』で「尊厳」という言葉を調べても、そこには「とうとくて、おごそかなこと」と記されているだけで、これも何のことだかわからない。仏教関係者が、「いのちの尊厳」とは「仏のいのちのありがたさ」だと語るのを聞いても、「仏のいのち」が何なのかわからなければ、やはりよくわからない。

ある時、それもそうだろうということに気が付いた。そもそも「尊厳」という考え方そのものが、キリスト教から生み出されたものなのだ。キリスト教によれば、人間は神によって創られ、神に生命を与えられ、神に護られて生きている。人間には、神という絶対的な後ろ盾があるからこそ、神聖にして侵すべからざる「尊厳」が宿るのである。そうだとすれば、このような神を説かない仏教にとって、「いのちの尊厳」とは何なのか。

「仏のいのち」の「仏」とは、私には釈尊や特定の仏菩薩のことだとは思えない。まして、「仏のいのち」は、そうした仏菩薩から授けられた「生命」であるとも思えない。なぜなら、仏教の説く「仏」とは、人間を生み出す創造主ではないからだ。むしろ、仏法、つまり「仏の悟った真理」こそが「仏」という語の意味であり、それが「いのちの尊厳」を支える後ろ盾になっているのではないだろうか。そして、その真理とは、いわゆる縁起の教え、すなわち、あらゆるものは互いに支え合いながら存在しているということである。

私たちの一人ひとりは、周囲の人々や自然によって支えられながら、同時に、それらのすべてを支えながら生きている。その意味において、誰もが皆、世界のあらゆるものを結ぶネットワークの真ん中に生きている。私たちは、誰もが世界の主人公なのである。「いのち」とは、私たちの一人ひとりがそのようにして「生きている」ことであり、そこにこそ、仏教の説く「いのちの尊厳」が現れるのではないだろうか。

そう考えているうちに、私たちが昔から「世間」と呼んできたものが、実はこのネットワークではなかったかと思いついた。「世間」といえば、個人の言動を束縛するうっとうしいものだというふうに、私たちはしばしば考える。確かにそのような側面がないとは言えないだろう。世間体を気にしながら、世間様から後ろ指をさされないように、多くの人たちは自分の気持ちを制御しながら暮らしている。我が国では「世間」の力があまりにも強いため、「個人」の意識が育たないと主張する識者も存在する。けれども、本当に「世間」はそんなにも悪者なのだろうか。

先日の東北地方を襲った地震の際に、孤立した被災地の集落では、日頃から培ってきた住民同士の強い絆があればこそ、互いに助け合うことで被害を最小限に抑えることができたと報じられている。ここに、私たちは「世間」の中で暮らす人々の強さを見ることができるだろう。反対に、東京の秋葉原で殺傷事件を犯した青年は、周囲の誰からもかまってもらえなくなったから、誰かに注目して欲しかったと語っている。「世間」の支えを失った人々が、ついには自分自身をも支えることができなくなることの一例だと言えないだろうか。

考えてみれば、この世の中に、いいことばかりのものなどありはしない。光があれば陰があり、表があれば裏がある。私たちが世間に支えられているということは、私たちが世間に迷惑をかけているということかもしれない。私たちが世間を支えているということは、時には私たちが自分の考えを世間に押し付けているということでもあるだろう。支え合う存在であればこそ、そこには束縛し合う関係も生まれてくる。携帯メールを手放せない若者たちも、常にお互いを束縛し合うことでしか、自分の存在を支えられないという思いを抱いているのだろう。通信機器の発達によって、人と人とを結ぶネットワークの姿は変わろうとも、「世間」に支えられた私たちの「尊厳」のあり方は、何ら変わっていないのかもしれない。

最近、私たちの間では、テレビドラマのタイトルのように、「渡る世間は鬼ばかり」という思いが強まっているように思われる。しかし、私たちを束縛し、私たちを苦しめるだけの「世間」というのは、やはりどこかいびつなものだろう。昔の人々は「渡る世間に鬼はない」と言った。人々を束縛し、一見すると「鬼」のように邪悪な存在に見えながら、見えないところで人々の存在を支え、人々に安らぎを与えてくれる世間こそ、本来の世間の姿ではなかったか。あらゆる人が支え合い、あらゆる自然が支え合う。だからこそ、「情けは人のためならず、巡りめぐりて我が身にかえる」という言葉も生きてくる。今、私たちは「世間」の復権を目指すべき時代を生きている。それが実現した時に、仏教の教えにもとづく「いのちの尊厳」は、ますます輝きを増すことになると私には思われるのである。