尊厳を生きる―三界の主人公として―

 平成20年度 天台宗中央布教研修会における基調講演)

「仏のいのち」とは何か

 ただいまご紹介賜りました愛知学院大学の木村でございます。よろしくお願いいたします。この比叡山の麓、いわば鎌倉新仏教の揺籃の地で、天台宗の布教師の皆様の前でお話させていただくことを光栄に思いながら、同時に少々緊張しております。

 実は昨年4月に、法蔵館から『生死の仏教学―「人間の尊厳」とその応用―』という本を出版いたしました。たまたまこの本が布教師会の会長でいらっしゃいます今井長新先生のお目にとまりまして、今回のお話を頂戴したわけでございます。私などでは役不足ではないのかなとも思いますが、約1時間、この本の中身を踏まえつつ、今私の考えていることを述べさせていただきたいと存じます。

 さて、「尊厳を生きる-三界の主人公として-」というタイトルを掲げました。今回のお話は、「人間の尊厳、いのちの尊厳とは何なのか」ということを仏教の立場から考えてみようというものですが、お話の最後に、できれば葬祭の問題にも少し触れたいと考えています。

 まず初めに、「尊厳」という言葉について考えてみましょう。既に20年以上も経ってしまいましたが、いわゆる臓器移植の問題が世間の様々な場所で論じられるようになってから、臓器の提供や受容は人間の尊厳に反するのではないかとか、人間の尊厳を支える行為と言えるのかという論議が交わされてきました。それ以来、わが国では「尊厳」という言葉を、いわゆる生命倫理の現場でしばしば耳にするようになりました。

 ただし、「尊厳」と一言で言いますが、「尊厳とは何か」ということになると極めて難しい問題です。例えば、「人間の尊厳」、「ヒトの尊厳」、「人格の尊厳」、「生命の尊厳」、「いのちの尊厳」など、いろんな言い方をされています。しかも、そうした表現を使う人々は、何がしかの意図を持って「人間の尊厳」とか「生命の尊厳」というように言い方を変えていらっしゃる。ですから、一言で「尊厳」と言いながら、「人間の尊厳」と「生命の尊厳」とでは微妙にニュアンスが違うのです。その一方で、「では、あなたの言っている尊厳とはどういうことですか」と尋ねますと、残念ながら、たいていの方はあまりはっきりとした回答を示してくれません。

 そこで、例えば『広辞苑』を調べてみますと、そこには「とうとくおごそかで、おかしがたいこと」と書いてあります。しかし、「とうとくおごそか」というのは「尊」と「厳」の漢字を訓読みしただけであって、何も説明していないようなものです。ついでに「おかしがたいこと」と付け加えておけばいいだろうというくらいの説明ですから、この定義では何の役にも立ちません。

 仏教関係の方々も、しばしば「尊厳」という言葉を口にされます。けれども、誠に僣越ながら、私が拝見するところ、たいていの仏教関係者は「人間の尊厳」とか「いのちの尊厳」ということを「仏のいのち」という言葉に置きかえて、それでよしとされています。では、「仏のいのち」とは何か。そこから先の説明を一般の人たちは求めているにもかかわらず、仏教学の先生方の論文は、残念ながらそれを「仏のいのち」と言い換えるだけで、すべてを言い尽くしたかのように沈黙してしまいます。

 「仏のいのち」とは何でしょうか。仏様から与えられた「いのち」なのか、仏様に守られている「いのち」なのか、あるいは、仏様によって造られた「いのち」なのか。少なくとも仏教においては、キリスト教の神のように、あらゆるものを生み出す創造主の存在を認めません。そうだとすれば、仏様によって造られた「いのち」だとか、仏様に与えられた「いのち」という言葉は、仏教にも創造主がいるのかという誤解を招きかねません。仏様に守られている「いのち」とか、仏様に支えられている「いのち」なら、まだいいかもしれません。しかし、問題は残ります。「仏」とは一体何かという問題です。

 「仏」とは何でしょうか。例えば、釈尊は「仏」です。しかし、私たちの「いのち」の一つひとつがゴータマ・シッダールダ、釈尊に守られていると言えるでしょうか。私の「いのち」は2500年前に亡くなった釈尊に守られているという説明は、残念ながら一般の人たちには理解し難いものだと思います。「阿弥陀如来に守られている」とか、「大日如来に守られている」とおっしゃる方がいます。しかし、この考え方は阿弥陀如来や大日如来を信仰されている人にとっては納得できるでしょうけれども、通仏教的に、あらゆる立場の人に受け入れられることは、恐らくできないと思います。

ここで考えてみれば、「仏」という言葉が示しているのは、ゴータマ・シッダールタ、つまり釈尊だけではありませんし、阿弥陀如来や大日如来といった特定の仏だけでもありません。釈尊によって説かれた真理、すなわち仏法も、広い意味では「仏」です。『法華経』に説かれている久遠実成の仏陀とは、まさに釈尊によって説かれ、代々の祖師たちによって受け継がれてきた仏教の真理を人格化したものです。そうだとすれば、私達は釈尊だとか阿弥陀如来という特定の仏様ではなくて、あらゆる仏たちによって守られ、あらゆる仏たちによって伝えられてきた仏教の真理を「仏」という言葉で表せばいいのではないでしょうか。そのような「仏」によって生かされ、その「仏」に守られ、その「仏」を自らも生きる。そのような意味で、「仏のいのち」を考えてみたらどうでしょうか。

 そうしますと、次に問題になるのは、今私が述べた「仏」、すなわち仏教の真理とは一体何なのかということです。そして、それを「尊厳」と結びつけるためにはどのように考えたらいいのでしょうか。これが、私の今日のお話のテーマです。

 

社会と世間

 さて、これから「尊厳」とは何かということを考えていくわけですが、その前に「社会」と「世間」について考えておきたいと思います。なぜ尊厳を語るのに、社会とか世間という言葉を出す必要があるのかと思われるかもしれません。実は、この社会とか世間という考え方が、「いのち」や「尊厳」の問題を考える際に、一つのキーワードになると私は考えているのです。

 例えば、子供から「社会って何」、「世間って何」と聞かれたとします。皆さんは何と答えられますか。恐らく、いきなり社会と世間の違いを教えてくれと言われれば、たいていの方は面食らうでしょう。でも、黙ってもいられませんから、「同じようなものだよ」と答えてしまうと思います。ところが、「同じようなものだよ」と答えた本人が、何か落ちつかない気持ちになるはずです。

 私たちはよく、「世間様に申し訳が立たない」とか、「世間様のおかげです」と言います。けれども、「社会様に申し訳が立たない」とか、「社会様のおかげです」とは言いません。そのような言い方をしたら、「あなたの日本語の使い方はおかしいよ」と言われてしまいます。日本語として、社会と世間は違うものだということです。

 では、どう違っているのでしょうか。まずは世間について。この「世間」という言葉は、日本では極めて長い歴史を持っています。既に1400年も前に、聖徳太子が「世間(せけん)虚仮(こけ)唯仏(ゆいぶつ)()(しん)」という言葉の中に「世間」という単語を使っています。しかも、この「世間」という言葉がもともとどのような意味なのかを探っていきますと、海を渡って中国に至り、さらにさかのぼってインドにまでたどり着きます。インドのサンスクリット語に「ローカ(loka)」という言葉があります。この「ローカ」という言葉が仏教とともに中国に伝えられました。中国人はインドから伝えられた経典をすべて中国語に翻訳し、そこで用いられている様々な言葉も中国語に置き換えました。その際に、「ローカ」という言葉も中国語に訳されました。それが「世の間」、「世間」という単語です。ですから、「世間」という言葉は、歴史的に仏教と深いつながりをもっているのですね。

 では、「世間」、すなわち「ローカ」はもともと何を意味する言葉でしょうか。「ローカ」とは、本来は「広い空間」という意味です。この「広い空間」を意味する言葉が、やがて「世界」という意味になり、さらには「世界に住んでいる仲間たち」という意味をも表わすようになりました。つまり、「世間」というのは世界であると同時に、その中に住んでいる人々、仲間たち。同じ世界に住む人と人とのつながり、ネットワーク、間柄。そんな意味を表す言葉なのです。

 そうだとすれば、「世間様に申し訳が立たない」というのは、「本来であれば穏やかなネットワークの中に、余計な波風を立ててしまった。人と人との間柄をおかしくしてしまった。だから、そのネットワークに連なる人々に対して申し訳が立たない」ということになります。「世間様のおかげです」という言葉も、「私に連なっている様々な人々のおかげです」ということです。

 一方、「社会」という言葉は、日本ではまだまだ新しい言葉です。せいぜい130年ぐらいの歴史しかありません。明治時代の初めに、欧米から様々な言葉が日本に入ってきた時に、そうした欧米の言葉を日本語に移し替えていきました。例えば、「宗教」とか「哲学」という言葉も、この時新たに作られた日本語ですけれども、それと同じように、「社会」という言葉も英語の“society”の翻訳語として作られました。ですから、日本において「社会」という言葉は、「世間」に比べて非常に歴史が浅いわけです。

しかしながら、もともと「社会」、“society”という考え方は、ヨーロッパでは長い歴史を持っています。ヨーロッパといえば、もちろんキリスト教の世界です。このキリスト教の世界の中で、あるいはキリスト教の文化の中で、「社会」という考え方は長い時間をかけて作り上げられてきました。

 キリスト教においては、まず第一に神の存在を主張します。たった一人の神が、全世界を自分一人の力で造りだし、その世界を自分一人の力で動かしている。これがキリスト教の基本的な考え方です。ですから、キリスト教の教えに従えば、世界中のあらゆるものは神が粘土細工のようにして造り、その一環として人間も造られたということになります。そして、神は自分が造った人間たちを、この地上に住まわせた。その際に、神は目に見えない枠を作ります。その枠の中に人間たちを住まわせることで、「この枠の中で、あなたたちは幸せに暮らしなさい」という方向性が示されました。その枠が、例えばアダムとイブが追放されたエデンの園であったり、今私たちが暮らしている現実の世界であったり、あるいは、もっと小さなものでは学校とか会社という枠であったりするのです。

 『広辞苑』を調べますと、「社会」とは「人間が集まって共同生活を営む際に、人々の関係の総体が一つの輪郭をもって現れる場合の、その集団」と説明されています。まず輪郭があって、その中に一人ひとりの人間が置かれている。いわば、この枠の中で暮らしている一人ひとりの人間たちの集まり、集団。これが「社会」です。

 先程お話した「世間」が人と人とのつながり、ネットワークから成り立っているのに対して、「社会」は神によって作られた枠の中に、神によって造られた人間たちが置かれることで生まれる集団と言うことができると思います。譬えて言えば、絵を描く時に、輪郭線をはっきりと書いて、その中に色を置く人と、輪郭線を書かずに色だけを塗って形を表す人がいらっしゃいます。輪郭線のあるのが「社会」、輪郭線がなくて、絵の具だけで何となく形を表しているのが「世間」です。このように考えますと、「社会」と「世間」は根本的に考え方が違うと言わざるを得ません。

そうなりますと、共同体の秩序を守るためのルールも、社会の場合と世間の場合では根本的に違う概念だと理解する必要が出てきます。社会におけるルールとか法律は、神が設定した枠の中で、神が造った一人ひとりの人間が幸せに暮らせるように、神がその枠の中の秩序を維持するために与えたルールです。ですから、神が与えたルールに従うことは絶対的な善であり、そのルールに背くことは絶対的な悪である。神の御心に従うか従わないかによって、善と悪を明確に分けることができます。すべては神に由来するのです。だからこそ、アメリカのブッシュ大統領は「悪の枢軸」という表現を何の躊躇もなく使えるのです。

 しかしながら、世間のルールはそこまで明確ではありません。人間が自分たちで造り出した世間のルールには、かなりグレーゾーンがあります。絶対にやってはいけないことや、絶対にやらなくてはいけないことも一応はありますけれども、それでも、「どうしようもなければ仕方がない」とか、「少し目をつぶってあげるから、早くやっちゃいなよ」ということがよくありますね。私たちは善悪を一応区別しながらも、人と人とのつながりを円滑にするために、あまり善悪にとらわれることなくグレーゾーンに頼ります。「だから、日本人はいいかげんなのだ」とか、「日本人は善悪もはっきり区別ができないから、だめなのだ」ということをよく言いますけれども、それはいいとか悪いという理屈以前の問題です。いわば、ヨーロッパの文化と日本の文化、あるいは、キリスト教にもとづく文化とそれ以外の別の宗教にもとづく文化の違いです。そのどちらが正しいとか間違っていると言うこと自体が、根本的に的外れな議論だと私は考えています。

 

神に支えられる「尊厳」

 では、今お話しました「社会」と「世間」の違いが、「尊厳」の問題とどのように結びつくのでしょうか。そろそろ本題に入りましょう。

 「尊厳」という言葉は、先ほど申しましたように、「人間の尊厳」とか「生命の尊厳」というように、いろいろな形で使われています。しかしながら、日本ではこうした一つひとつの言葉に対して明確な基準がありません。なぜかと言えば、「尊厳」という言葉も「社会」や「哲学」、「宗教」などと同じく、日本語としては借り物にすぎないからです。欧米の言葉を翻訳した「尊厳」という言葉を、日本人は使い勝手がいいからと言って、まねをして使っているだけなのです。

ですから、私たちは日本人なりに、この「尊厳」という言葉をしっかりと理解し直す必要があります。と言いますのは、もともとこの言葉が欧米で使われていたということは、その言葉自体が、本来はキリスト教の伝統にもとづいて作られているということです。そのため、「社会」と「世間」が違うように、キリスト教文化伝来の「尊厳」という言葉をそのまま使っても、日本ではうまくいくはずがないと私は思っているのです。

 さらにもう一点。この「尊厳」という言葉を、我々は単に「尊厳」と呼んで済ませていますけれども、英語に置き換えた場合、「人間の尊厳」は“dignity”、「生命の尊厳」は“sanctity”、いわば「神聖さ」を表しています。つまり、「人間の尊厳」と「生命の尊厳」は別のものだというのが欧米流、すなわちキリスト教的な理解なのです。

 では、この2つの言葉はそれぞれ何を意味しているのでしょうか。先ほどから述べていますように、キリスト教においては、神があたかも粘土細工を行うかのように、ありとあらゆるものを一人で造り出しました。そして、天地創造の最後に人間も造られました。しかし、人間はほかのものとは決定的に異なる存在で、粘土細工だけでは完成しませんでした。人間の身体は自然界の他の動物や植物、あるいは石や岩と同じように粘土細工で造られていますけれども、人間を造り出す作業の最後に、神は人間の身体の中に「ふっ」と息を吹き込みました。この神の息こそが、人間の精神になっています。つまり、私たちの身体の中には、神から与えられた精神、すなわち人格が宿っているのです。だからこそ、人間は他の自然とはまったく違う存在だというわけです。

 そう言いますと、「ちょっと待ってよ。うちの猫はにゃんにゃん鳴いているよ」とおっしゃる方がいらっしゃいます。「猫や犬を、ただの石ころと同じ扱いにするとはけしからん」と怒られる方もいるでしょう。でも、皆さんは時計を持っていますよね。時計には魂はありませんが、ちくたくちくたくと動いています。音もします。ぜんまいや歯車や、それ以外の様々な部品がうまく絡み合うことによって、時計は魂がなくても、ちくたくと言いながら動いているのです。キリスト教の教えによれば、動物はこれと同じだということです。もちろん鋼鉄製の歯車はありませんが、様々な形の部品が組み合わさることによって、犬も猫も動き回るし、わんわん、にゃんにゃん鳴くのだというのです。でも、人間は違います。人間は、神から与えられた人格を持っています。

 皆さんの中にも、行ったことのある方がいらっしゃると思いますが、バチカンのシスティーナ礼拝堂の天井に、ミケランジェロによる有名なフレスコ画が描かれています。その中に「アダムの創造」と名付けられた場面があります。この絵は少々美術的に脚色されていますので、神がアダムの中に息を吹き込んだというよりも、神の指先からアダムの指先へ生命が吹き込まれるような感じになっています。けれども、神が粘土細工のように造り出したアダムの身体の中に、「いのち」を吹き込む様子が象徴的に描かれていると言えるでしょう。つまり、精神を与えられていなくても、アダムは動物と同じようにちゃんと動いています。しかし、その身体の中に精神が与えられることによって、アダムは初めて人間になったのです。

 このように、あらゆる自然は物質だけでできているのに対して、人間は物質からなる身体に加えて、神から与えられた精神、すなわち人格を持っています。だからこそ、人間はこの精神を粗末にするようなことをしてはならないし、まして、神が結び付けてくれた精神と身体とを引き離すようなことをしてはならない。つまり、人間の生命を、人間が勝手に左右するようなことをやってはならない。これが「生命の尊厳」、「生命の神聖さ」、“sanctity”という言葉の意味になります。

 一方、「人間の尊厳」はどのように説明されるのでしょうか。聖書の中に、神は人間を造る際に、人間を神自身に似た姿で、いわば神の「()姿(すがた)」として造ったと書いてあります。しかも、聖書によれば、神は人間に対して、神に代わって地球上のあらゆるものを支配する権限を委ねられたというのです。さらにもう一点。神は苦しみの中にある人間たちを救うために、神の一人子(ひとりご)であるイエスを人間の形で地上にお遣わしになられました。このように、人間は神の似姿であり、神から自然を支配する権限を委ねられており、神によって神の一人子であるイエスを遣わしていただいている。神から見ればとてつもなく重要な存在ということになります。これが「人間の尊厳」ということです。

 しかしながら、こうしたキリスト教的な尊厳の考え方には問題があります。少なくとも、私たち日本人、もしくは仏教徒からすると、そのままでは受け入れられない点がいくつかあります。まず、「生命の尊厳」ということに関して、この生命は神から与えられた精神にもとづくものだから、神聖であるとか、尊厳をもつという点です。それならば、精神が身体から離れたら尊厳も消えてしまうのでしょうか。あるいは、亡くなった方の遺体には精神がないわけですから、その遺体には尊厳もないのでしょうか。精神が離れてしまった身体は、もはやただの物質にすぎない。だから、どうでもいいと言うのでは、精神、すなわち人格をあまりにも偏重し過ぎています。身体のもつ重要性が無視されています。しかも、身体と精神が結びつき、一人の人間が生きている間に限って「生命の尊厳」と「人間の尊厳」が成立すると言うのでは、生きている人間しか相手にしないことになります。死んだらもう関係ない。死者に尊厳はないということになってしまうのです。

 第二の点。神は一人ひとりの人間の身体の中に精神を注入しました。この精神があるからこそ、一人ひとりの人間は尊いのだということは、神と人間とが一対一の関係で結ばれていることを意味します。このように、「生命の尊厳」や「人間の尊厳」が神から与えられた精神に由来しているということは、そうした「尊厳」が基本的には個人単位のものであり、周囲の人々の存在を前提にしないということになります。「私は神と結びついている、だから私は尊い」と言っているにすぎなません。もちろんキリスト教の方に言わせれば、「いや、それだけではないよ」とおっしゃいます。しかし、基本は神と人間との一対一の関係です。社会は、そのような個人が一つの枠の中に集まることで成立しているわけですから、その枠の中での人と人との関係は、「尊厳」の観点からしますと二次的なもの、二番目のものになってしまうのです。

 そして、何よりも私たちとっての大問題は、キリスト教的な「尊厳」の考え方は、その背後に神という絶対的な拠り所をもっていることです。この神の存在を本気で信じていない人間からすると、キリスト教的な「尊厳」の概念は、残念ながら使い物になりません。言葉の上でいくら「尊厳」と言ったところで、所詮、神を信じない日本人にとって、その「尊厳」はただの張りぼてです。中身がありません。そのような「尊厳」という言葉を日本語として振り回したところで、「あなたは何も語っていないに等しい」と言われてしまいます。そうだとすると、私たちはこのキリスト教的な、もしくは欧米流の「尊厳」という考え方をいったん捨てて、私たちなりに、仏教徒なりに、あるいは日本人なりに作り変えていく必要があります。

 

何となくの宗教意識

 ただ、そんなことを言いますと、「別に、宗教なんてどうでもいいじゃないか」と言われてしまうかもしれません。「日本人はそこまで宗教にこだわっていないよ」とか、「仏教にもとづいてとあなたは言うけれども、私は仏教をそこまで信じていないから関係ないよ」というのが一般的な意見でしょう。むしろ、「私はどこかのお寺の檀家で、そのお寺にお墓はあるけれど、特に仏教の信者というわけではない。お寺にも行くけれど、同じように神社にも行くし、12月にはクリスマスも楽しんでいる。あえて言えば無宗教だ」というのが大半の日本人の感覚です。このような人たちに対して、いきなり「仏教にもとづく尊厳とは」などという話をしたら、「やめてちょうだい」と言われるのがおちでしょう。

 そこで、私たちが仏教にもとづく「尊厳」について語ろうとする際には、その一歩前の段階から話をしなければなりません。お寺にも行くし、神社にも行くし、クリスマスも楽しんでいるという、宗教に「いいかげんな」日本人にとって、「尊厳」の概念を仏教にもとづいて定義する理由がどこにあるのか。まずはそこから説明する必要があるのです。

 ここで改めて考えてみますと、「私は仏教の信者である」とか、「私は神道の氏子である」ということを杓子定規に考えている人が日本人の中にどれぐらいいるでしょうか。あるいは、そんなに堅苦しいことを言う必要が、果たしてあるのでしょうか。私は最近、このことを非常に疑問に思っています。私も一応僧籍にある身ですから、このようなことを言いますと、皆さんから怒られてしまうかもしれません。しかしながら、神様を信じるとか、仏様を信じるというような堅苦しいことを言っていても、ほとんどの人が今ではついてきてくれません。

 「あなたは、何気なくお寺参りに行きますよね。何気なく初詣に神社へ行きますでしょう。では、観光旅行でもないのに、何気なくキリスト教の教会に行きますか。何気なくオウム真理教の道場へ行きますか。」こんなことを聞かれれば、たいていの人は「お寺や神社へはちょっと立ち寄ったりするけれど、教会に何気なく行くことはないかな。まして、オウム真理教の道場へは絶対に行かないよ」と答えられますよね。重要なのは、この「何気なく」ということです。

 しばしばアンケート調査の中で、「あなたは特定の宗教を信じていますか」という質問が出されると、約7割の人が「ノー」と答えるそうです。ところが、「宗教心は大事だと思いますか」と聞かれると、また7割くらいの人が、今度は「イエス」と答えるそうです。1つのアンケートの中で、約7割の人々が特定の宗教は信じていないと答えながら、同時に、約7割の人々が宗教心は大事だと答えている。そこで、「やはり、日本人は宗教に対していいかげんだ」という識者のコメントが出てきます。

 けれども、アンケートに答えている方は、決していいかげんに考えているわけではありません。まじめに自分自身の生活を振り返った時に、自分は特定の宗教を信じていると、胸を張って言うのは気恥ずかしい。でも、宗教心は大事だと思っている。そのことを正直に述べているだけですね。それに対して、「あなたの立場はいいかげんだ」とコメントすることは、実に失礼ではないでしょうか。

 そもそも、「神を信じる」とか「仏を信じる」と言う時、そこには一つの覚悟が求められます。覚悟とは何か。それは、見たことも会ったこともない神の存在を私は信じるのだという覚悟です。あるいは、眼に見ることも、音に聞くこともできない仏の存在を、誰が何と言おうと証明してみせるという覚悟です。「そんな神や仏など、いるわけがないではないか」と言う人に対して、たとえあなたは会ったことがなくても、私は神、あるいは仏の存在を証明してみせるという覚悟。この覚悟は重要です。

 考えてみれば、キリスト教には2000年の歴史がありますね。その2000年の間、キリスト教徒は何に最も心を配ってきたのでしょうか。おそらく、ほとんどの人が見たことも会ったこともない神の存在を、人々に説明し、納得させることではなかったかと私は思います。そのために、その神の存在を言葉で説明し続けてきた。だからこそ、もともとキリスト教とは関係のなかったアジアやアフリカやアメリカや、世界中のあらゆる所にキリスト教が広がることになったのです。まず、神は存在するということを徹底的に言葉で説明し、言葉で納得させてしまう。たとえ見たことはなくても、神は存在するということを言葉で納得した上で、初めて神を信じるという覚悟が定まる。信じるということは、まずは言葉によって、理屈によって、その信じる対象の存在を納得することから始まります。

しかし、日本人がそんなことをしたらどうなりますか。おそらく、1時間お話をした後で、「では質問を」と言った途端に、「今の話を1分でまとめてください」と言われてしまうのがおちでしょう。1分で説明できないから1時間話をしているのに、その内容を1分でまとめろと言うのです。つまり、「そんな理屈はいらないから、心に訴えかける1フレーズで十分だ。小泉純一郎元首相のように、1フレーズで言って欲しい」というのです。言葉や理屈ではなくて、心や感性。以心伝心こそが求められます。

 だからこそ、和歌とか俳句が文化として育まれたのです。わずか17文字で、世界のすべてを説明し尽くす。これが俳句の世界です。「古池や 蛙飛び込む 水の音」。これを聞いた時に、「古い池があって、そこにカエルがぽちゃんと飛び込んだ。だから何なんだ」と言ったら、「あなたは修行が足りない」と笑われてしまいます。むしろ、わずか17文字で、世界のすべてを見通してしまう。これが日本人の感性です。言葉ではありません。それと同じように、神がいるか、仏がいるかということを、言葉を使ってぎちぎちがちがち議論して、その上で神を信じるとか、仏を信じるということを私たちはしていません。むしろ、神や仏の存在を、その場の雰囲気の中に、感性を通して感じています。

 例えば、ここに1つのお守りがあるとしましょう。「さあ、このお守りを踏んでごらん」と言われたら、たいていの人は「嫌だ」と言いますね。「なぜお守りを踏むのが嫌なのか」と聞かれれば、おそらく「ばちが当たるから」と答えるでしょう。「それなら、『ばち』って何ですか。なぜ、ばちが当たるのですか。論理的に説明してください」などと言ったら、「馬鹿なことを言うな」と言われてしまいます。「そんなことは、心で感じるべきだ。お守りには神様が宿っていると私たちは何となく感じている。だから、このお守りを踏んだら、ばちが当たると私たちは何となく感じている。それでいいではないか」というのが一般的な答えでしょう。

 あるいは、真っ暗な夜中に「お墓の中を一周してきなさい」と言われたら、やはりたいていの人は「嫌だ」と言いますね。なぜかと聞かれたら、「お化けが出そうで気味が悪い」と答えるでしょう。でも、「お化けの存在を証明しなさい」ということを普通は言いません。むしろ、証明する必要はないのです。何となく感じるとか、何となくその気配を察する。それで充分です。

 同じように、神社の拝殿で柏手を打ってお祈りをしていると、何となく清々しい気持ちになって、身体の中にエネルギーが湧いてくるような気がする。お寺の本尊様の前で手を合わせていると、何となく心が穏やかになってくるような気がする。仏壇やお墓の前で目を閉じていると、何となく懐かしい人々の顔がまぶたの裏に浮かんできて、声が聞こえてくるような気がする。この「何となく感じる」というところに、日本人の宗教意識の特徴があるのです。

 そうだとすれば、多くの日本人は、どっぷりと日本的な宗教意識の中に浸かっていると言えるでしょう。何となく神様や仏様の気配を感じながら、神道や仏教の雰囲気の中で一日一日の生活を送っているわけです。そのような私たちが、神の存在を言葉で証明し、それによって納得した上で、神を信じるというキリスト教的な考え方になじむことはできません。また、そうしたキリスト教的な観点から、「尊厳」の問題を考えることもできないでしょう。むしろ、私たちが日々、何となく大切にしながら、何となく感じながら、何となく見守っていただいている日本的な神仏の世界観の中で、私たちは「いのちの尊厳」を考えていくべきではないでしょうか。

 

世間の中の主人公

 では、改めて仏教の立場から、「尊厳」の意味を考えてみましょう。「尊厳」とは「とうとくおごそかで、おかしがたいこと」。これは、先ほど引用しました『広辞苑』に載っている定義です。何ゆえに尊いのか、何ゆえに侵しがたいのか。「尊厳」の概念が成立するためには、やはり絶対的な、誰もが納得できるような拠り所が必要です。何らかの拠り所があるから尊いのであり、何らかの理由があるから、それは侵しがたいものになる。「尊厳」が成り立つためには、何か絶対的な根拠が必要なのです。キリスト教にはそれがあります。神がそれにあたります。しかし、仏教にはそのような絶対的な神はいないのです。そうだとすれば、何を根拠にして「尊厳」を定義することができるのでしょうか。

まずは、精神とか魂の存在を考えてみましょう。一般に、我が国では精神や魂のことを「心」と呼んでいます。ところが、仏教の立場から「尊厳」を考えようとした場合、この「心」はその拠り所にはなりません。と言いますのは、私の心は何があっても変化しないとか、絶対に揺らがないという人は恐らくいないからです。車を運転している時に、余裕があれば鼻歌を歌っていますし、横断歩道に歩行者がいれば「お先にどうぞ」と止まってあげますよね。けれども、その同じ人が、急いでいる時にはクラクションをブブッと鳴らして黄色信号でも突っ込んで行ったりします。心は状況によってころころ変化して止まることがありません。そんな不安定な心にもとづいて、私たちは「尊厳」という概念を定義することはできないのです。それでは、どうすれば仏教にもとづいて「尊厳」を定義できるのでしょうか。

 そこで、再び考えたいのが「仏のいのち」という言葉です。先ほど私は、仏教関係者が「いのちの尊厳」を、しばしば「仏のいのち」という語に置き換えていることを申し上げました。ただし、ここで言う「仏」は、釈尊でもなければ、阿弥陀如来や大日如来でもなくて、仏の説いた真理であるとも申しました。この「仏」、すなわち「仏の説いた真理」こそが、仏教からみた「尊厳」の拠り所になるのではないでしょうか。

 ここで問題になるのは、拠り所にするべき「仏の説いた真理」とは何かという点です。もちろん、それに該当する事柄はたくさんありますが、今は話の都合上、2つのことに限定したいと思います。

 1つは空の思想です。簡単に言ってしまえば、いかなるものの中にも、他者の影響を受けることなく、永遠に変わらない本質は存在しない。あらゆるものは、周囲の影響によって常に変化し続けている。私たちの心といえども、周りの状況に従って常にころころ変化していく。無常ならざるものは、何一つとして存在しないというのが空の思想です。

 そして、もう1つは縁起の思想です。「縁起」には幾つかの意味が含まれていますが、ここでは、あらゆるものは相互に支え合いながら存在しているという意味に注目したいと思います。この世に存在するすべてのものは、互いに影響を与えあいながら存在している。そのため、あらゆるものは他者の影響によって、絶えず変化を繰り返す。それ故、永久に独立して存在するものや、永遠に変化しないものはあり得ないという教えです。

もっとも、既にご承知の方もいらっしゃると思いますが、実はこの2つの思想、すなわち、空の思想と縁起の思想は一つの事柄を別の観点から述べたものにすぎません。と言いますのは、あらゆるものは永遠に変わらない本質をもたないからこそ、常に他者の影響を受けて変化を繰り返すことになるのです。言い換えれば、「空」なる存在であるが故に、「縁起」の存在でもあるわけです。このように、表裏の関係にある2つの思想、「空の思想」と「縁起の思想」を使って、「仏のいのち」を考えたいと思います。いわば「空のいのち」、あるいは「縁起のいのち」とは何を意味するのでしょうか。

 まず始めに、「人身受け難し」という言葉を考えてみましょう。私たちがこの世に生まれ出て、日々を暮らしていくためには、様々な条件が集まることが必要です。両親がいて、そのまた両親がいて、さらにそのまた両親がいることで、初めて私の「いのち」は生まれます。しかも、たくさんの食べ物を食べなければ、言い換えれば、多くの植物や動物の「いのち」をいただかなければ、私たちは生きることができません。のみならず、そうした植物や動物を育ててくれる農家の人々に支えられながら、それらを養う太陽や土や水に支えられながら、無数のバクテリアや虫たちの働きに支えられながら、私たちは生きています。でも、それだけでもありません。生まれてから今日まで、交通事故に遭いそうになりながらも、運よくその難を逃れてきたし、知らず知らずの間に誰かの恨みを買いながらも、幸いにして闇討ちに遭わなかった。このように、無数の諸条件がうまく絡み合うことによって、初めて私たちは今、ここに生きているのです。これが「縁起のいのち」、あるいは「空のいのち」ということになるのではないでしょうか。そして、この点に、私たちは「人間の尊厳」、「いのちの尊厳」に対する仏教からの1つの答えを見出すことができるでしょう。

 このことに関連して、有名な「盲亀浮木の譬え」に触れておきたいと思います。改めてご説明する必要はないかもしれません。海の中を泳いでいる大きな亀が、100年に1度だけ波の上に顔を上げる。その時、たまたまそこに浮かんでいる木切れに穴が開いていて、その穴に、亀の頭がすぽんとはまる確率がどの程度あるのか。もちろん、考えられないくらい小さな確率でしかありません。しかし、それと同じくらい小さな確率で、たまたま今、ここに私たちは生かされているのです。様々な条件に支えられて、あらゆるものに支えられながら、私たちは生かされている。そのような私たちの一人ひとりの存在が、まさに尊厳をもつのだと言っても間違いではないでしょう。

 しかし、それだけではありません。「尊厳」にはもっと別の意味もあるはずです。先ほど申しましたように、私たちは様々な人々によって、様々なものによって支えられて生きています。私たちの周りには、私たち一人ひとりを支えてくれる家族がいて、友人がいて、先生がいる。例えば今日、私がここでお話をさせていただいていることも、皆さんが聞いて下さっているおかげです。私は皆さんに支えられながら、いわば皆さんが一生懸命支えて下さっているネットワークの真ん中で、お話をしているわけです。

 このことはちょうど、たくさんの人々が支えているトランポリンに譬えることができます。様々な人々が集まって、それぞれにトランポリンの端をしっかりと支えてくれているからこそ、私はその網の真ん中で、安心してぴょんぴょん飛び跳ねていることができます。誰か一人でも網を支えている手を離したら、その上で飛び跳ねている私は落ちてしまいます。そんなことになったら、とても安心して飛び跳ねていることはできません。みんながトランポリンの端を支えてくれているという信頼感があるからこそ、私はその上で、その真ん中でぴょんぴょん飛び跳ねていることができるのです。その時、私は皆さんが支えているトランポリンの真ん中、ネットワークの真ん中にいるというわけです。

 しかも、このネットワークを支えている皆さんの一人ひとりにも、同じように家族があり、友人があり、先生やお弟子さん、信者さんがいらっしゃいます。さらに、こうして皆さんを支えている多くの人々も、その一人ひとりが同じように様々な人々に支えられています。このように考えていくと、そこに無限のつながりが広がっていることに気がつきます。おそらく、このネットワークは世界中の人々を結ぶ巨大なものになるでしょう。

 先日、ある方の講演の中で、私たちは世界中の誰とでも、わずか5人の人を介するだけでつながりを持つことができるという話を伺いました。最初は「まさか」と思いましたが、考えてみれば、確かにそうですね。アメリカに友人のいる人を見つければ、その人を通して情報はアメリカまでポンと伝わります。さらに、そのアメリカのどこかに住んでいる人がニューヨークに知り合いのいる人を見つければ、その人を通してニューヨークに住む人とコンタクトをとることが可能です。そうすれば、ニューヨークに住んでいる誰かとつながりを持つことができるわけです。このように、5人の人が仲介してくれれば、世界中のあらゆる人との間でネットワークができてしまいます。

つまり、私の周りにいるあらゆる人々のネットワークを広げていけば、あっという間に世界中の人がすべてつながってしまうのです。しかも、そうしたすべての人々の生活を支えている植物や動物、太陽、水、大地。そのすべてが全部つながっていることになります。そして、そのすべての人やものをつなぐ巨大なネットワークに支えられながら、そのネットワークの真ん中で、あたかもトランポリンの上をぴょんぴょんと飛び跳ねるようにして私たちは日々を送っています。その意味で、私は世界の中の主人公だと言ってもいいでしょう。私は世界の中の主人公。こんなに気分のいい話は他にはないですよね。

 ただし、あらゆる人々が私を支えてくれているということは、逆に言えば、私は一人では生きられないということを意味します。そればかりか、私は一人で死ぬこともできません。私が死んだ時に、「ご臨終です」ということを、私が自分で宣言することはできないのです。あるいは、私の死後、その遺体を誰かが処理してくれないと困ります。

 昨日、ある本を読んでいましたら、面白い話が載っていました。「葬式不要、火葬も不要。自分が死んだら、医学上の研究のために献体してくれ」と言い遺した人がいた。ところが、献体された遺体を切り刻んだ後で、最後に残った肉片をどうすればいいのか。病院の先生方が困ってお寺に持ってきて、「これを火葬して、弔ってあげてください」と言ってきたというのです。結局、葬式不要、火葬不要と言ってみたところで、最後は結局、お寺に戻ってくるではないかという話でした。

 やはり、私たちは一人では死ねないのです。後片づけもできないのです。その辺に野たれ死にしたところで、鳥がついばんでくれなければ、私たちの遺体は自然に帰っていくこともできません。そうだとすれば、私たちは一人で生きられないし、一人で死ぬこともできません。生まれる時も、生きている時も、そして死んだ後も、あらゆる人々によって、様々なものたちによって支えられている。私たちの一人ひとりは、そうした世間のつながりの中の主人公なのです。

 しかも、この世間のつながりは、現在、この世に生きている人たちだけの話ではありません。私を産んでくれた両親にはその両親がいて、そのまた両親がいて、どこまでさかのぼるかわかりませんが、地球の46億年の歴史の一番最初のところまでつながっていきます。しかも、私の両親には友人や先生がいたわけですし、そのまた両親にも友人や先生がいたはずです。さらに、彼らもいろんなものを食べながら、自然の様々なものに支えられながら暮らしていました。私の「いのち」は、こうした過去のあらゆるものとのつながりの中で、そうしたものに支えられながら、そうしたものの影響を受けながら、今、ここに存在しています。これもまた、先ほど申しました「縁起のいのち」、「空のいのち」ということになるでしょう。

 ただし、「縁起のいのち」、「空のいのち」という考え方は、私が一方的に様々な人やものに支えられているというだけのものではありません。反対に、私の存在が周りの人やものを支え、それらに影響を与えているということも意味しています。私が働くことによって家族が暮らしていますし、私が話をすることによって、誰かが何かのヒントを見つけることもあるでしょう。私の行動が誰かの役に立つかもしれません。そればかりか、私が亡くなった祖父母のことを毎日忘れずに暮らしているからこそ、私の祖父母は今でも私の心の中で生きています。

もっと言えば、近代国家としての日本のシステムは、明治政府の役人たちによって築かれました。今、私たちはそのシステムを守りながら暮らしています。その意味において、私たちは日本のシステムを築き上げた明治政府の役人たちの「いのち」を支え続けているわけです。あるいは、生かし続けていると言った方が妥当でしょうか。

 比叡山に「不滅の法灯」というものがあるそうですね。伝教大師最澄の教えの象徴として、この法灯は日本仏教の伝統とともに1200年間燃え続けています。いわば、この法灯とともに、伝教大師の教えが平安、鎌倉時代以来、今日に至るまでの日本の仏教を支えているわけです。しかし、反対に考えてみれば、皆さんが「不滅の法灯」をお護り下さっているからこそ、この法灯は輝きを未来につなぐことができるわけですし、伝教大師の教えを受け継ぐ様々な祖師たち、さらには、その教えを受け継ぐ私たちがいるからこそ、伝教大師の教えの火を絶やさずにいることができるのです。私たちは伝教大師によって、あるいはその教えを受け継いだ法然や親鸞、栄西や道元、日蓮といった鎌倉時代の祖師たちによって支えられていると同時に、彼らの教えを受け継ぐことで、彼らの教えを今に生かし続けている。彼らを支え続けていると言うこともできるのです。

 その一方で、環境問題というものがあります。何のために環境を守る必要があるのでしょうか。それは、50年後、100年後の子供たちの生活を、私たちが支えなくてはならないと考えているからです。私たちは環境を守ることによって、未来の子供たちを支えています。しかし、同時に、私たちが一生懸命守っている日本、もしくは世界を、未来の子供たちがしっかりと受け継いでくれるだろうと期待するからこそ、我々は今、張り合いを持って頑張ることができるのです。私たちは、未来の子供たちの環境を守り、彼らの生活を支えると同時に、未来の子供たちが私たちの思いを受け継いでくれるだろうと思うことによって、未来の子供たちに支えられて生きているのです。

 このように考えますと、私を支えてくれているのは、現在の世間をつなぐトランポリンのような二次元的なネットワークではなくて、過去と現在と未来、すなわち三界のすべてを包み込む三次元的な、あるいは球体、ボールのようなネットワークだということになります。そのネットワークのすべてに支えられながら、そのネットワークの真ん中で、三界というボールの中心で、今、私はこうしてお話をさせていただいています。まさに、私は過去、現在、未来の三界の主人公ということになるわけです。

 仏教では、心と身体を分けるというような小さなことは言いません。ですから、仏教からみた「尊厳」は、身心一如でなければなりません。しかも、それは生きている者だけではなくて、既に亡くなった者も、これから生まれてくる者も、すべてを取り込んだ世間に支えられた「尊厳」です。私は世間の主人公、あらゆるもののネットワークの中心です。だからこそ、私の存在は「とうとくおごそかで、おかしがたいもの」となるわけです。このように考えた場合、この「尊厳」は私を支えてくれている過去、現在、未来における世界中のありとあらゆる人やものとのつながり、ネットワーク、すなわち世間の存在を、その拠り所にしていることになります。いわば、他者とのつながりの中で初めて成立する「尊厳」です。キリスト教の説く「尊厳」が神を背後に持っているのに対して、仏教における「尊厳」は世間をその拠り所にしているのです。

ただし、その時に、私たちは世間とは何かということをいちいち論じません。「何となく考えてみれば、私はいろいろな人のお世話になっているな」とか、「考えてみれば、私は植物や動物の『いのち』を食べて生きているな」というように、何となく考えてみれば、私はいろいろなものに支えられていることに気づかされる。これが、世間に支えられた私ということでしょう。

 そもそも世間の存在は、いちいち議論によって証明するようなものではなくて、むしろ私たちが日常生活の中で何となく感じているものです。神や仏の存在を、言葉を尽くした議論によって証明し、その上で神や仏を信じるというのではなくて、何となく神仏の気配を感じつつ、何となくそのご加護を願いながら、何となく神社やお寺にお参りをしているのが日本人の宗教意識だという話を先ほどいたしました。それと同じ感覚で、私たちは何となく世間の存在を感じながら、何となく世間の中で暮らしています。だからこそ、日本では改めて「尊厳とは何か」と言われてもぴんと来ないし、言葉にもならないのです。あえて言葉にしようとしても、結局、たいしたことは何も言えません。でも、それでいいのではないでしょうか。何となく世間の中で暮らしていることの中にこそ、私たちの日本人的な、もしくは仏教的な「尊厳」が出てくるのだと私は考えています。

 

天上天下唯我独尊の教え

 さて、あらゆるものを結ぶネットワークの真ん中で、その主人公として生きるということについて、もう少し考えてみましょう。

 『ダンマパダ』、いわゆる『法句経』の中にこんな言葉があります。中村元先生の訳をそのまま使わせていただきますが、「もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。・・・・・・自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか。自己をよくととのえたならば、得難き主を得る」と述べられています。自分こそがまさに世間の真ん中、主人公だということですね。

私はこの一文を見るたびに、「天上天下唯我独尊」という言葉を思い出します。釈尊が生まれた直後に7歩歩き、両手で天と地を指さしながら語られたという言葉です。実のところ、誠に申し訳ないのですが、私にはいくら釈尊といえども、生まれた直後に「天上天下唯我独尊」と語られたとは信じられません。しかし、それならばなぜ、仏教徒はこのような話を2000年以上にもわたって大切に語り伝えてきたのでしょうか。また、この言葉は私たちにどのようなメッセージを伝えているのでしょうか。

この言葉にはいろいろな解釈がありますが、私はそれを勝手ながら次のように考えたいと思います。釈尊が亡くなる前に、弟子のアーナンダ、阿難尊者に対して、「自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる」ということ、いわゆる「自灯明、法灯明」の教えを説かれました。「天上天下唯我独尊」という言葉は、この「自灯明、法灯明」とまったく同じことを言っているのではないかと私は考えています。つまり、「天の上にも、天の下にも、ただ我ひとり尊い」。私たちが何らかの判断を下す際に、様々な人のアドバイスを聞きますが、最後には自分で決断を下さなければなりません。学生が就職活動の結果として2つの会社から内定をもらったとしましょう。A社とB社のどちらか一方を選ばなければなりません。その時に、友人や先輩、先生や両親など、いろんな人に相談したところで、みんなが同じことを言ってくれるとは限りません。むしろ、みんなバラバラなことを言うでしょう。結局、最後は自分で決めるしかないのです。

 昨日、たまたまインターネットのニュースを見ていましたら、北京オリンピックで金メダルを獲得した柔道の石井慧選手が来日中のダライ・ラマに会って、「自分は総合格闘技に転向したいのだけれども、柔道を続けるべきか迷っています。どうしたらいいでしょうか」と尋ねたそうです。それに対してダライ・ラマは、「様々な状況を見極めながら、でも、最後は自分で一番いいと思う道を選びなさい」と答えられたそうです。まさに「自灯明、法灯明」の教えですね。そして、「天上天下唯我独尊」。あなたにとって最後の拠り所はあなたしかいない。だから、あなたは様々な人の意見を参考にしながらも、最後は自分なりに的確な判断を下さなければなりません。そのためにも、常に的確な判断を下せるような自分を育てていきなさいということです。

 そうだとすれば、釈尊は生まれた直後と死ぬ直前に、いわば人生の最初と最後に同じことをおっしゃったことになります。あなたは世間のネットワークの真ん中にいる主人公なのですよ。主人公なら主人公らしく、自分のことは自分で決めなさい。しかし、独りよがりになってはいけません。周りの人のことを考えて、周りにいる人の意見を参考にしながら、でも、最後は自分なりに決断を下しなさい。これが「自灯明、法灯明」であり、「天上天下唯我独尊」という教えであったと私は理解したいと思います。それこそが、2500年にわたって釈尊の教えを語り伝えてきた仏教徒たちが、最も大切だと考えていた釈尊の教えのエッセンスなのではないでしょうか。同時に、それを実践することで、私たちも自らの「尊厳」を生きることが可能になるのだと私は考えています。

 ただし、ここで注意すべき点が一つあります。私は三界の主人公だからと言って、他の人々に無用な迷惑をかけることがあってはなりません。釈尊の言葉として、『サンユッタ・ニカーヤ』に次のような一節が記録されています。「どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。それ故に、自分を愛する人は、他人を害してはならない。」私は世間の主人公です。でも、同じように、AさんにとってはAさんが世間の主人公ですし、BさんにとってはBさんが世間の主人公です。私が世間の主人公として振る舞うためには、そのことを周囲の人々から認めてもらわなければなりません。そのためには、私もAさんやBさんのことを世間の主人公として認める必要があります。つまり、AさんやBさんを前にした時、「そこに自分と同じ一人の人間がいる」という思いを抱くことが大切なのです。

 この時に、単に「そこに一人の人間がいるから、その人を大切にしましょう」というだけではいけません。「そこに一人の人間がいる。でも、その人は自分よりもレベルの低い人間だから、どうでもいい」ということにもなりかねないのです。そのように考えると人種差別が起こります。そうではなくて、「そこに、まさに自分と同じ一人の人間がいる」と考えるのです。この「自分と同じ」という所がポイントになるはずです。

『スッタニパータ』の中で、釈尊が次のように語っています。「『かれらもわたくしと同様であり、わたくしもかれらと同様である』と思って、わが身に引きくらべて、殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならぬ。」私は世間の主人公である。しかし、あの人も私と同じく世間の主人公だ。だからこそ、「わが身に引きくらべて」という言葉が生きてきます。「わが身に引きくらべて」、自分と同じ立場にある者として、他者を一人の主人公として尊重しなさい。自分が主人公であるためには、私を支えてくれている他のすべての人々も主人公だということを忘れてはいけない。そうすると、必然的に慈悲の精神が出てきます。自分が願う喜びを他者にも与えることを意味する「慈」と、自分が望まないような苦しみを他者からも取り除いてあげることを意味する「悲」。その具体的な表れが、他者の必要としているものを、何の見返りをも求めることなく与えようという布施の実践になるわけです。

皆さんもよくご承知のように、仏教には五戒があります。言うまでもなく、五戒とは不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不酤酒戒の5つです。この5つの戒に共通する教えは、いずれも過度の欲望を慎みなさいということです。過度の欲望を抱くから、私たちは無用の苦しみを経験することになります。ですから、苦しみから逃れようとする者は、過度の欲望を捨てなさいというのが五戒の一つの意味だと私は考えています。しかし、それだけではありません。五戒には、他者に余計な迷惑や苦しみを与えてはならないとか、世間の秩序を乱してはならないという教えも含まれていると私は理解しています。つまり、五戒は自らが苦しみから逃れるために過度の欲望から離れなさいということと同時に、他者に対しても余計な苦しみを与えることなく、「わが身に引きくらべて」できる限りの幸せを他者に与えなさいという2つの教えが含まれているのではないでしょうか。そうすることで、私たちは初めて自分自身の「尊厳」を守ると同時に、他者の「尊厳」をも守ることができるのです。

 

尊厳からみる葬祭の意義

 さて、そろそろ時間がなくなってまいりました。お話の最後に葬祭の問題にも触れたいと言いながら、あまり時間が残っていません。けれども、基本的な考え方は、これまでにお話してきたことで、ほぼ言い尽くしたと思います。私たちは、誰もがあらゆるものに支えられたネットワークの真ん中で生きている。しかも、それは現在だけではなく、過去と未来のすべてを包み込むネットワークである。そのようなネットワーク、すなわち世間の主人公として生きることが、仏教からみた「尊厳」だということです。では、このような「尊厳」の視点から、葬祭をどのように位置づけることができるのでしょうか。

当然のことながら、葬祭とは新たに亡くなった人、もしくは過去に亡くなった人の菩提を弔うために営まれます。しかし、同時に注目すべき点は、葬祭の場には故人に関わりのある人々が、故人のために一堂に集まるということです。つまり、ここでは故人がそうした人々のネットワーク、世間の主人公であることが確認されることになります。その意味で、葬祭は故人の「尊厳」を確認し、それを今一度明らかにするための場だと言うことができるでしょう。

 ただし、葬祭というのは、故人のためだけのものではありません。葬祭の場では、故人が世間の主人公であることを私たちが確認すると同時に、私たち自身が故人とつながりを持っていること、さらには、故人を扇のかなめとして、その場に集まっている生者たちが、互いに何らかの形でつながっていることを確認することになります。つまり、そこでは、一人ひとりの生者もまた、その同じネットワークにつながる者であり、その一人ひとりが、それぞれを中心とする世間の主人公であることを確認することになるのです。その意味において、葬祭は生者の「尊厳」を確認する場でもあります。

 しかも、そうした確認の儀式は、故人が亡くなった直後に行われる葬儀で終わるわけではありません。葬儀の後も、いわゆる年忌法要を繰り返すことで、故人と遺された生者の双方の「尊厳」を確認する儀式は続けられます。この年忌法要は、一般に「弔い上げ」と称される三十三回忌、もしくは五十回忌まで続けられます。この弔い上げの時期は、ちょうど故人の具体的なイメージ、直接的な記憶を持っている人がいなくなる頃に相当します。言い換えれば、故人の記憶を持っている人が生きている限り、故人は遺された生者の心の中に生きているのです。

我が国では、通常、人間の平均寿命は80歳くらいだと言われています。しかしながら、これはあくまで生物としての人間の平均寿命にすぎません。胎児であっても、お母さんのお腹の中でモゴモゴ動いていれば、周りの人たちはお母さんのお腹に向かって「赤ちゃん、元気ですか」と話しかけますよね。一方で、亡くなった後でも三十三回忌、もしくは五十回忌まで年忌法要を繰り返してもらえれば、その人たちは遺族の心の中で生き続けることができます。そうだとすると、人生は生前の80年に加えて、お腹の中の1年と、五十回忌が終わるまで50年。つまり、1+8050。合計131年が世間の主人公としての平均寿命と言ってもいいのではないでしょうか。

 このように、葬祭というのは、一人の人間が生まれる前も、生きている間も、さらには死んだ後でさえ、常に世間の主人公であることを私たちが確認する場です。生者が故人の「尊厳」を守ると同時に、そこに連なるあらゆる生者の「尊厳」を守る場。もしくは、そのような「尊厳」に改めて気づくための場。そのような葬祭の場は、人々に対して「いのちの尊厳」、「人間の尊厳」を思い起こさせるための絶好の機会です。僧侶には、そのような教化の場に関わる特権が与えられているのです。

 すべての人は、様々な条件に支えられながら生まれてきて、様々な人やもののネットワークの真ん中に生きています。そのことがもたらす「尊厳」を守り、その「尊厳」を生きていくためにも、まずは自分自身が世間の中の主人公であることを自覚し、主人公である自分を大切にすること。すべてはそこから始まるのではないか。そんなことを今、私は考えています。ご静聴、ありがとうございました。