平成19年施食会法話 「乾屎蕨(かんしけつ)」

 皆様の中でも、ご自宅に和室のある方がいらっしゃると思います。顕光院にも、もちろん和室がございますが、それとともに、この本堂の裏手にはお茶室もございます。時々、お茶の先生方が、このお茶室でお茶会を開いてくださいますので、檀信徒の方以外でも、お茶の心得のある方々には、だんだん顕光院の名前を覚えていただけるようになってまいりました。

 こうした和室とか、あるいはお茶室には床の間がございます。床の間には必ず掛け軸がかかっております。この掛け軸にはいろいろな言葉が書いてありますが、よく禅のお坊さんが、何らかのお言葉を揮毫(きごう)されたたものが、かかっていることがございます。例えば「無心」であるとか、「日々是好日」、毎日毎日いい日だな、などという素敵な言葉が書かれています。

ところが、禅の言葉、いわゆる禅語の中には様々なものがありまして、中には到底、掛け軸に書いてもらえないような、かわいそうな言葉たちもあります。その中の一つをご紹介しようと思います。

 ちょっと臭い話で申し訳ありませんが、「乾屎蕨(かんしけつ)」という言葉です。この乾屎蕨とは何かと申しますと、実は私、実物を見たことがないのですけれども、ひとことで言うと「くそかきべら」。早く言えば、今日のトイレットペーパーのことだということです。

木を薄く切りまして、五センチぐらいの小さな板を作るのだそうです。この五センチぐらいの板を二枚持ってお手洗いに入る。大きいほうです。まだトイレットペーパーが高級品で買えなかったころ、これを持ってお手洗いに入り、便が終わりますと、まず一枚でバサっとやって、今度はひっくり返してもう一度バサっとやる。そして、それを捨てる。木ですから、腐りますから大丈夫です。次に、もう一枚の方で丁寧にお尻の後片付けをやって、それも捨てて、何事もなかったようにして戻って来る。これがすなわち乾屎蕨だそうです。現在で言えば、今申しましたように、トイレットペーパーと言えばいいのかもしれません。これも禅語なのです。

 どういうことかと申しますと、十世紀ごろ、今から千年ぐらい前の中国のお坊さんに、雲門(うんもん)という方がいらっしゃった。この雲門という方は、非常に偉いお坊さんだったのですが、言葉が悪い。人がびっくりするような言葉をしばしば語られる方だったようです。

 あるとき、若いお弟子さんが、お師匠の雲門さんに尋ねました。「師匠、仏とは何か」。この質問に対する答えが、「乾屎蕨」。びっくりしたでしょうね。「仏って何ですか」と聞いたら、「トイレットペーパー」と答えるのですから。そのあとの話は伝わっておりません。となりますと、私たちはこの「仏とは何か」、「トイレットペーパーである」というわけの分からない禅問答を、自分の頭で考える必要に迫られるわけです。

 さて、「仏」とは「トイレットペーパー」というのはどういうことなのでしょうか。まず一から考えてみましょう。仏様と言えば、私たちはお釈迦様を考えます。でも、よもやお釈迦様はトイレットペーパーではないですね。そのほかにも、仏様と言いますと、例えば阿弥陀様、大日様、薬師様など、いろんな仏様がいらっしゃいます。でも、やはり、仏様たちをトイレットペーパーとして使ってしまっては申し訳ない。では、この「仏」とは何なのでしょうか。

 仏というのは、お悟りを開かれた方のことです。お悟りを開かれたということは、この世の苦しみから離れた方です。この世の苦しみから離れるためにはどうしたらいいのでしょう。お釈迦様は、その方法を考えて六年間修行を重ねられました。しかし、六年間たってもまだ修行は完成しない。いよいよ菩提樹の木の下にどっかりと坐って、一週間瞑想、坐禅をされたそうです。

 そして七日目の朝、お悟りを開かれたそうですが、この七日間坐禅をしているとき、お釈迦様は何をしていたのかと言うと、必死になって、自分の心の中の欲望と戦っていたといわれています。寝たいな、おいしいものを食べたいな、と思ったかどうかは知りません。でも、次から次へと欲望がわいて来た。この欲望と一生懸命闘っていた。この欲望のことを「悪魔」と呼んだお釈迦様は、いわば、悪魔と必死になって闘っていたのです。そして、欲望がすっと消えた瞬間、つまり悪魔がさっと逃げて行った瞬間に、お釈迦様はお悟りを開かれたということなのです。

 欲望をなくすことによって、私たちもお悟りが開ける。苦しみから逃れることができるということなのです。「そんなこと、私たちにはできないよ」と皆さんは思うかもしれません。でも考えてみれば、それほど難しいことでもないのかもしれないのです。

 例えばサラリーマンが、この仕事をやったら上司に褒めてもらえるかなとか、この仕事を上手にやったらボーナスが増えるかなとか考えることがあります。これは欲望ですね。ですから、自分が一生懸命仕事をやったのに、上司から評価してもらえなかったとか、ボーナスが下がってしまったなんていうことになると、何でこうなるのかなと、つらい気持ちになるわけです。これはすなわち、心の苦しみ。心の苦しみというのは、「自分の思ったとおりに、ことが進まなかった」という思いです。

苦しみたくなかったら、最初から、上司に褒めてもらおうと思わなければいいわけです。少しぐらい、ボーナスが増えようが減ろうが関係ないやと思って、一生懸命仕事をやっていればそれでいい。仕事がうまくいきさえすれば、それでいい。自分が満足できればいいわけです。これが、苦しみがなくなるということ。これをやったら誰かが褒めてくれるとか、これをやったらボーナスが増えるとか、この「たら」をなくせば、かなり心が楽になる。欲望さえなくせば、あるいは欲望さえ抑えれば、苦しみから逃れられる。これが、お悟りの第一歩のようなのです。

 さて、乾屎蕨に戻りましょう。と言っても、今ではさすがに乾屎蕨はありませんから、トイレットペーパーに話を置き換えることにします。私がトイレに入ったとき、大便をしますとトイレットペーパーを使います。でも、トイレットペーパーはいちいち私に文句を言いませんね。「おまえのお尻なんかふきたくないよ。美しい人のお尻だったらふきたいけれど、あんたのお尻は嫌だよ」という言葉を、私は幸いにして、いまだかつてトイレットペーパーから聞いたことがない。あるいは、トイレットペーパーでお尻をふいて捨てるときに、「おい、私にちゃんと感謝しなさい」と、トイレットペーパーはしゃべりませんね。黙々と私のお尻をふいて、そして堂々と捨てられていく。まさに仏なのです。

 「仏とは何か。トイレットペーパーである」というこの言葉。「あなた方、トイレットペーパーに恥じない生き方をしていますか」という、雲門さんならではの、まさにユーモアのこもったと言いますか、辛辣な問いかけかもしれません。ただ、なかなか私たちは、このトイレットペーパーの心境に達することができません。残念ながら、一生懸命「たら」を捨てて仕事に集中し、そのあとで「誰が何と言おうと関係ない」という気持ちには、なかなかなれないのが凡人の性なのです。

 トイレットペーパーは、なぜ堂々と使われて、堂々と捨てられていけるのか。ここに、実はもう一つ、重要なことがあるような気がいたします。

 トイレットペーパー、あるいは乾屎蕨。どちらでもいいのですけれども、これらのものは木から作られております。その木はどうやって生まれて来るのかと言えば、土があって、水があって、養分があって、お日様に育まれている。こういったさまざまな条件に支えられながら木は育ちます。さらに、この木を切る人がいて、加工する人がいる。この加工した木を使って、お尻をふく私がいる。ふいたあとで捨てられますと、今度はバクテリアが分解して土に戻してくれる。たった一枚のトイレットペーパー、たった一枚の乾屎蕨が、大地と、そして様々な人間に支えられて存在している。

 しかも、このトイレットペーパーを使う私には、両親がいて、友だちがいる。また、私はご飯を食べて生きています。同じように、私の両親や友だちにも、両親がいるし、友達もいます。彼らもご飯を食べて生きています。さらに、一本一本の木の周りには、たくさんの下草が生えています。たくさんの仲間の木たちがいます。この仲間の木や下草たちも、たくさんの土や水や養分に支えられて生きています。

 そうやって考えますと、たった一枚のトイレットペーパーは、ありとあらゆるものを結ぶ、いわばネットワークによって支えられているわけです。宇宙のありとあらゆるものが、まるでクモの巣のように、ものすごく複雑なネットワークで結び付いている。そのど真ん中に一枚のトイレットペーパーがあり、一枚の乾屎蕨がある。つまり、このトイレットパーパーは、世界の中の主人公なのです。

 昔々、中国のお坊さんに、これまた変わった人がいまして、毎朝鏡に向かって「おい、主人公」と呼びかけていたそうです。そして、自分で「はい」と答えていたそうです。これを毎日繰り返す。

 トイレットペーパーは、世界のあらゆるものを結ぶネットワーク、網の目に支えられながら、その中心にいる世界の中の主人公。私たち一人一人もまた、世界中の様々な人を結ぶネットワークに支えられながら、そのネットワークのど真ん中にいる主人公。主人公であるならば、誰が何と言おうと関係ないではないか。主人公であるならば、私が私なりに考えて、全力を尽くして、そしてやるべきことを、やらなければならないことを、もしくは自分が「やろう」と決めたことを、一生懸命やっていけばそれでいいではないか。主人公ならばこそ、人の声や評価を気にする必要はないではないか。まさに乾屎蕨のごとく、他人の目を気にせずに堂々と仕事を行い、他人の感謝や他人の言葉などを気にせずに、堂々と仕事を終えていく。これでいいではないか。トイレットペーパーがだんだん偉く思えてまいりました。「仏とは何か。トイレットペーパーである」。素晴らしいですよね。

 ただ、最近の研究によれば、この言葉に対するとんでもない解釈が出てきたのだそうです。「乾屎蕨」とは、長い間「くそがきべら」だと思われていたのですが、そうではなくて、「そのへんに落っこちている、乾いた野ぐそ」だというのです。

 昨日、お寺の庭を掃除していましたら、猫か犬の干からびた野ぐそが落ちていました。これが乾屎蕨だと言うのです。ぎょぎょっと思いましたけれども、くそはくそなりに、ちゃんと自分の仕事をしているのです。おなかの中にたまったら大変です。それこそ、救急車に来てもらわなければなりません。くそは、おなかの中から出て来てくれて、そして土に帰って養分となって、また次の植物を育ててくれる。それを私たちが食べさせていただく。くそはくそなりに、自分の仕事をしっかりと堂々とやり、自分の存在を堂々と主張している。お庭にくそが落ちていたりしますと、それでは具合が悪いですから、私たちはほうきを持って掃きますけれど、あるべきところにあれば、それはしっかりと仕事をしてくれますね。こんなにありがたいものはないわけです。

 「仏とは何か」という問いに対して「乾屎蕨」と答えたときに、それがトイレットペーパーでも、野ぐそでもいいわけです。ただ、そうは言いましても、やはり「野ぐそ」と書かれたお軸を茶室の床の間にかけるのは、少々気が引けます。そんなわけで、この「乾屎蕨」という言葉は、かわいそうに、掛け軸にしていただくことができません。ですから、今日はこうやって、皆様にお披露目しているわけなのです。

 さて、そろそろこれくらいで今日のお話を終わりにしようかと思ったのですが、話が野ぐそで終わったのでは、「臭かったね」と言われてしまいそうです。そこで、最後に一つ、美しいお話をしておきましょう。

道元禅師の作られた和歌の中に、こんな歌がございます。有名なものですから、ご存じの方がいらっしゃるかもしれません。

 「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪冴えて 涼しかりけり」

 春は花がいいな。夏はほととぎすがいいな。秋は月がいいし、冬は雪がいいな。おそらくそういった意味かと思います。しかし、それだけではないはずです。

「仏とは何か。乾屎蕨である」と雲門禅師はおっしゃった。道元禅師は「仏とは何か」と聞かれて、「花も仏である。ほととぎすも仏である。月も雪もまた、仏である」と答えられているのではないでしょうか。花も、ほととぎすも、月も雪も、さまざまな条件に支えられながら、宇宙のありとあらゆるものに支えられながら、この宇宙のありとあらゆるものをつなぐネットワークの網の目のど真ん中で、自らの存在を主張し、自らのなすべき事柄をなしている。それを見た人間が、ただ勝手に「ああ素晴らしいな」と思っているだけなのです。花は、人間がどう思おうと関係がない。月も雪もまた、人間がどう思おうと関係ない。すべてのものが、宇宙にあるありとあらゆるものが、「我こそは主人公である」と考えながら、自分の存在に堂々と自信を持って生きている。私たちもまた、自分の存在に堂々と自信を持ちながら、「私こそが世界の主人公である」という気概を持ちながら、一日一日を暮らしていきたいと思います。

 ついでながら、この「春は花」という歌を評して、ある方がこんなことをおっしゃっていました。「この歌の中には、道元禅師のやせ我慢が示されている。」最初にこの言葉を聞いた時、私は失礼な人だなと思いました。けれども、よくよく考えてみたら、確かにそのとおりだなと納得させられたのです。

「春は花 夏ほととぎす 秋は月」。ここまではいいんです。「冬雪冴えて 涼しかりけり」という部分が問題です。なぜ、「寒い」と言わないんでしょうか。いくら道元禅師がお悟りを開いていても、「冬、雪冴え」たら、やはり寒いのではないでしょうか。寒いものは寒いと思うんです。でも、「寒い」とはおっしゃらない。「寒い」と言ったら、その瞬間に、「寒いから嫌だな」と思ってしまうのです。寒いから嫌だなと思うと、「この雪が降らなければいいのに」と言って、相手を否定してしまうことになります。それどころか、「こんな寒い日には、何もしたくないな」というぐうたらな気持ちになってしまいます。

 そこで、言葉を一つ換えて、「雪が美しいな、涼しくて気持ちのいい日だな」というように、ちょっとやせ我慢をすれば、心が前向きになれる。この道元禅師のやせ我慢を、私たちも見習いましょうということを、どなたかがおっしゃっていました。ああ、うまいことを言うなあと、あとになって気が付いたのです。

 これから暑い暑い夏がやってきます。でも、「暑い」と言ってはだめなんですね。「お日様がかんかん照ってくれて、いい天気だな。今日もまた暖かいな。」気持ちの持ち方一つで、汗一滴が減るかもしれません。「暑い暑い」なんて言わないで、「ああ、いい天気だな」と、団扇であおぎながら、あるいは扇風機にあたりながら、どうぞ皆様、この暑い夏、いや、暖かい夏を、お元気で過ごしていただきたいと思います。

 以上をもちまして、本年の施食会を終わらせていただきます。本日はどうもありがとうございました。